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気付かせてくれるもの

2018年10月三輪精舎第22回疏開リトリート報告

第22回疏開リトリートのお礼の座で、あるお同行が「いのちは賜り物でした」といわれたとき、それを聞いて「南无阿弥陀仏」が僧伽の人びとから沸き起こりました。疏開リトリートも十年以上が経過し、参加者たちは、歳月の流れの中で相互に知り合うとともに、お互いが成熟し、歳を取り、苦悩を経て、喜びに満ちた気付きに恵まれてまいりました。その2日前、疏開の開講式で、親として、祖父としてそれぞれの家族の責任を持っている、サム・ケリーさんとダンカン・ケネディさんが、「久しぶりに会えて本当に嬉しいね」といいながら抱き合っていました。すべてのお同行が、二人の幸せを感じましたし、自分自身が僧伽の中にいる喜びを感じさせて頂きました。

前述のように開講式から閉講式まで今回の疏開リトリートは、柔らかな明るい光に包まれて展開しました。この光に出会いながらも、六月以来精舎に参詣出来ていなかった私自身としては、自分の心と佛法の間に小さなギャップ(溝)が感じられ、何時ものように悲しい感じがしていました。しかしながら今回そのギャップは、阿弥陀佛から私を切り離すものではなくて、佛さまから「こちらへおいで」とお招きいただいている一歩のように感じられました。このようにして、私は、自らの業の暗闇にもかかわらず、大きな励ましを頂戴しました。

初日と二日目には何回か座談会があって、私たちは個人的な問を出し合って、その問に対するお同行の問を聞かせて頂きました。この過程は、私たちの殆どにとっては、まったく新しいものでした。自分の考えで色付けしないで、問を問うのは非常に難しいということが解りました。既に聴聞を受けさせて頂いた人は、私たちの相手をして下さった方々の問の問い方がどれほど巧みであったかを思い出させてもらいました。

経験不足と個々人の業のために小班での座談会の進捗状況はかなり異なっていましたが、二日目までにはすべての人が自分の問を共有し、お互いの問を聞く機会を持ちました。いくつかの共通なテーマが持ち上がり、特に「どの在りたいかという願いと実際の行動のギャップをどのように免れるか」という事が問題になりました。リトリートの最後には、それぞれのお礼を述べ合い、私はお同行の深い内観に大きな感銘と感動を覚え、自身の疏開リトリートへの態度は極めて怠惰であったと感じました。私がこの会合で聞かせて頂いたお言葉のすべてを取り上げることは不可能ですが、私が大変感銘を受けたある人の言葉を紹介したいと思います。

この女性お同行は、自分が心に感じていることと実際の言動のギャップに疑問をもって疏開に参加したそうです。彼女はしばしば他の人の思いに否定的に反応し、自分勝手な思い込みをし、その結果、挫折感を味わい気が動転してきたそうです。しかしながらこのリトリートの間に彼女は過去の行動を思い出し、それをまったく新たな光の中で見ることができました。このことが「私は自分自身の目的が本当に解っているのだろうか」という問を生み、「解っていない」としか答えようがなく、困惑したそうです。そして、「自分の行動に対する自身の目的が解っていないのであれば、私の考えていることはいったい本当なのだろうかと自問した」と続けられました。そして前日の建心師の『帰命と徹底した懺悔』というご法話を聞かせて頂いて、ある記憶がまったく違う新しい意味を持って彼女に甦ってきたのだと説明されました。過去を間違った角度から見ているからこういうことが起こっていたのだと解ったそうです。「私の人生の多くの事がそんなことだったに違いありません」と結語して「間違った角度からものごとを見て来たことを知って私は少し怖くなりました。なぜなら、私は自分自身を護るために最も安易な道を選び続けて来たからです。しかし怖くなって当然だと思います。それは、阿弥陀さまのお慈悲によって私に与えられた大きな好い機会です。ありがとうございました」と付け加えられました。

建心師の前述のご法話は疏開リトリートの重要な鍵でした。実際には建心師のお話は三つの部分から成っていました。1つ目は、建心師が事前に準備された話、2つ目は法話を読んだ後に付け加えられた疏開の座談会を経ての所感、そして最後は、リトリートの最終日のお礼の座で披瀝された深い内観と懺悔です。最初の二つの部分を拝聴して、参加者全員が「日常生活の只中での帰命」という今回のリトリートの主題を考える大きな好い機会を頂戴しました。

顕明師は、あるお同行に 、「建心師のご法話の対告衆はあなたでしたよ」と言われました。しかしながら、ご法話の後、建心師は別のお同行から個人的な質問を受け、それをきっかけに翌日のお礼の座で更に心中をお話し下さることになりました。この座で建心師は「お同行からの質問を受けて、一体自分は何のためにこの法話を書いたのだろうと自問しました。その瞬間、「あるお同行のため」という意識が心にあったことに気づき、それはまったく間違った姿勢であった」と述べられました。「法話は、自分が賜った佛恩に感謝を表すためという根本目的を忘れていたことに気付かせて頂きました。傲慢にも私が持っていたお同行のために法話を書いたという意識は、それは話し手の思うことではありませんでした。一方で、書いたものを読み上げた後に付け加えた所感は、自分が意図して書いたものと違って、お同行の皆さまのお披瀝を聞いて、受け取らせて頂いたものでした。皆さまのお披瀝を聞きながら、私たち一人ひとりが佛様に救って頂く子供であることを忘れていたことに気づかせていただきました。ロンドンにいながら、親様のお呼びかけ、ご院家さま、坊守さまのお呼びかけ、ご慈愛を忘れ果てていたことに気付かせて頂きました。非常に傲慢であったことにお詫び申し上げ、私を支え続けてこれを理解させ、安らかな気持ちに導いて頂いたことを皆さまにお礼申し上げます」と仰いました。

このようにして、『帰命と徹底的した懺悔』と題して書かれた法話は、私たちにとっては、まったく自然に建心師自身の実例として具現されたのでした。

最後のお会座では、お同行が沢山のすばらしい深遠なお披瀝を分かち合ったのですが、残念ながらあまりにも多くて報告できません。私個人としては、私の法友アンドリュー・ウェブ氏の顕明師との出会い直しを目撃して大きな感動を覚えました。それはまた、私たちの師との私自身の関係を根本から新しくしてくれました。アンドリュー・ウェブ氏は最近、先生に頼まれていたあることが、都合がつかずできないという手紙を書いたのですが、その中で言い訳を先にして先生の純粋なこころを考えていなかった彼の態度は、まったく間違っていたということが解りましたと懺悔されました。彼は、「先生、私はこういう状況にあって仰って頂いたことをできません。どうぞごお許しください」と申し上げるべきだったとさとられたそうです。ウェブ氏は、もし私たちが敬いの態度を失えば一切が破綻してしまうのであり、その敬いなしには日常生活での帰命はありえませんと言われました。

私はまたあるお同行が「自分が疏開にもって来た問はまったく些細にして平凡だと思っていましたが、お同行の皆さんは非常に率直に現実的に答えてくれました。お同行の応答を聞きながら私は私の引き下がる傾向は、実は一種のエゴであったと感じています。卑下するのは謙虚に見えますが一種の自己執着でした」と言われた言葉に大きな感銘を受けました。

すべてのお同行の所感を聞いた後、顕明先生は私たちの最後のお会座を次のような言葉で総括されました。

「今朝私は僧伽の柔和にして清浄な光を感じています。三輪精舎の将来について非常に安心し強い確信を感じています。お一人ひとりにたまわった御恩に心より感謝しています。

皆さんは日常生活と三輪精舎滞在中のギャップについて話し合われました。確かに感じられるギャップはあります。しかしながら、あなた方は、三輪精舎に来てそのギャップを感じられたのです。二元性を超えてそのギャップを照らしだす何かが、何か大きなものが、あるからこそ、そのギャップを感じることができるのです。それは何でしょう?佛さまの大悲です。言い換えるならば、純粋な佛身の顕現としての僧伽だと言えるでしょう。

ティック・ナット・ハン師は、「現代の佛さま、それは僧伽です」と言われました。ご院家さまはご自身では佛であるとは仰いませんが、私たちにとって三輪精舎は、世界中の人びとが心の平和を得られるようにというご院家さまの清浄な願心によって建立されたものです。

自分自身を省みると、その三輪精舎におらせて頂きながら愚癡ばかりの私ですが、その愚癡の姿を僧伽の光に照らし出して頂いています。非常に申し訳なく感じると共に、周りの人びとに支えられ護られて非常にありがたく思っています。

あなた方の問題を心配し過ぎないで下さい。最も大事なのは問題があることに気付くことであり、それに気付けば、あなた方は気付かせてくれるものがあることに気付かれるでしょう。」

アンディバリット記