D. T. Suzuki’s Sincere Attitude towards the Problem of War (Japanese)

鈴木大拙のまこと

その一貫した戦争否認を通して

 

佐藤 平 顕明

 

はじめに

日本人仏教徒だけでなく世界の仏教徒に対して多大の影響を与えることになったブライアン・アンドルー・ヴィクトリア師の『禅と戦争』(1) を読んで、余人のなすことの出来なかった世界に向けての日本佛教界の戦争責任の剔抉 という大仕事に関しては、多大な共感と心底よりの感謝を覚えた。なぜなら、禅者だけではなく真宗門徒も日蓮信者も、全日本佛教徒が、本当に僅かな例外を残 して、全面的に戦争協力体制に入った責任は、過去の日本人ばかりでなく、現代の日本人も、未来に向けて明々白々に自覚しなければならないことだからであ る。私たちのこれからの歩みは、この事実に対する甚深の懺悔をもって、つまり再び決してそれを繰り返さない覚悟をもって、世界の人々とともに常に内面の平 和を確立しながら、平和な世界の建設を目指すものでなければならないであろう。これからの世界仏教者の実践たるもの、絶えず寂かな内面の平和に帰りつつそ こから働き出す日常底なくしては、たとえ表面には平和や調和を訴えるものであっても、その人も思想も行動も、涅槃寂静を旗印とする佛法領のものとはいえな い。ダライ・ラマ法王が、世界平和を語るときは必ず内面の平和に言及する所以である。

『禅と戦争』で取り上げられた主 題が極めて重大なものであるだけに、鈴木大拙先生を第二次世界大戦への積極的協力者であるかのような叙述には、しかしながらただ唖然とするばかりであっ た。鈴木大拙先生の生涯の最晩年の二年半を共に松ヶ丘文庫で過す好機に恵まれた、著者の抱く仏教哲学者鈴木大拙のイメージは、ブライアン・ヴィクトリア師 の描くところとは、天地の懸隔があった。その驚きの思いは、やがて深い悲しみとなり、このヴィクトリア師の立論が多くの西洋人の鈴木大拙師への親近を阻害 しているのを知って、この度この随筆を草することになったのである。

著者にとって、世界の禅者鈴木大 拙は、自由な国際人であり、ありのままの真人であった。九十歳なかばの高齢に達されてからも、さまざまなことに生き生きした好奇心を抱き、個々の事柄に対 して透徹した見解を示し、そして周りの人々に対しては深い思いやりと愛情をもって接しておられた。ご往生の節は、世界中の人々から追悼文が寄せられたが、 そのうちの一人精神分析家のエーリッヒ・フロム博士の言葉を紹介しよう。「鈴木博士は<ラディカル(徹底)>の人であった。この場合<ラディカル>とは、 根底まで行くという意味である。その根底とは、博士にとっては、人間にほかならなかった。博士の人間性は、民族的、文化的背景の特殊性を突き抜けて、光り 輝いていた。博士と一緒にいる時は、博士の国籍や年齢や<ペルソナ>を忘れさせられた。われわれが話しかけているその人は一人の人間であり、人間そのもの であった。それ故に、博士は、いつまでも現在するのである。そして友であり先達であった博士自身から輝き出るその光を思えば、その肉体が現にあるかどうか は、二次的なことでしかないのである。」(2) フ ロム博士は、鈴木博士は亡くなられてなお自分の前に現在していると実感をもって語る。ナチスの迫害を受けてアメリカ大陸に逃れたこの高名な心理学者の描く ところは、私の感じていたところに近いので、同じ追悼文の中からもう一節を紹介することにしたい。「博士が現にあるというそのことが、私や妻、そのほか幾 多の友人や同僚に与えた影響について書くべきであろう。その生命愛、その利己的な欲求からの自由、その内面的な喜び、その力強さ、これらはみな深い影響を 及ぼした。これらは、人びとをより強く、より生き生きと、より集中的にするに与って力があった。それも、偉大な人格がしばしば引き起こすような、あの畏怖 の念を起こさせることなしにである。博士は常に自分自身であり、謙譲であって、決して<権威者>ではなかった。自分の見解に従わねばならないと主張される ことは決してなかった。博士は何人にも恐れを生じさせることのない人であった。その身辺には、<偉大な人>のもつ非合理的な、人を煙に巻くような霊気は微 塵もなかった。博士が言われたのだから、その発言を受け入れねばならぬというような義理の感じは、全く存在しなかった。博士の権威は、全く博士自身の存在 に由来していた。それは承認してもらえるかもしれないという望みを与えたり、否認されるかもしれないという気づかいを起こさせるところから来る権威ではな かった。」(3)

本論

[これ以降の本論考究においては、全ての方々の敬称を省略する非礼をご寛恕願う。]

ブライアン・ヴィクトリアの鈴木大拙の著書からの引用の仕方は、頻繁に恣意的であると感じた。勿論、引用というのは、自分の意 見を主張したり、立論を傍証したりするためであるから、著者が必要に応じて言々句々を引用するのは自由である。しかしながら、ヴィクトリアの引用の仕方 は、その多くが原著の文脈を外れての引用である。大雑把に言えば、日本の禅界乃至佛教界が当時の軍事政権に全面的に協力したということを傍証するために、 繰り返し鈴木大拙の言葉を引くのであるが、それがしばしば原著の文脈を離れての引用であったり、單に自己主張のための我田引水的引用法であったりする。 『禅と戦争』の読書は実に不思議なというか不可解な体験だったので、はたして鈴木大拙がこんなことを言ったのだろうかと訝しく思いながら、その中の引用文 の全ての原文を調べてみた。その過程で、私には幾つかの疑問が出てきた。ブライアン・ヴィクトリアは、鈴木大拙の著書を正確に理解できたのかどうか、でき たのならば自分に都合のいいところだけを拾い読みしての引用か、臆面もなくそういう読み方ができるというのはどこでどのような思想的訓練を積んだのか、 等々の疑問である。しかしながら、現在の私には、引用文の全てを取り上げて問題点の全てを詳細に批判的に検証する暇はない。ここでは、主として『新宗教 論』(4) と『日本的霊性』(5) の二つに焦点を当てながら、この問題を考えていくことにしたい。

ここで読者に一言断っておかねばならないのは、この随筆では、長々とした引用文がかなり多くなるということである。それは、将 来はこれを英訳する予定もあって、現代日本の読者に対してばかりではなく、日本佛教に関心を持ちながらもアプローチの難しい西洋の人々に対しても、大拙の 考えていたところを具体的な資料として提出したいと考える実証的な立場からである。

まず鈴木大拙の『新宗教論』の問題を取り上げたい。これは、ブライアン・ヴィクトリアが、その著『禅と戦争』の「プロローグ」 という大事な導入部分で取り上げているからである。その「プロローグ」は、彼がヴェトナム反戦運動に参加したことを所属する宗派の責任者に叱責されたとい う悲しい体験の叙述から始まる。その冒頭部分をそのままここに引用する。

「私が東京永平寺別院の監院であった丹羽廉芳(1905-1993)の部屋に通されたのは、1970年春のことであったと記憶する。正座する私の前で、監院は、<あなたは曹洞宗の僧、さらに駒澤大学で仏教学を専攻する学生でありながら、日本でヴェトナム反戦運動に参加するとは何事か>と叱責した。

私自身の言い分を少し聞き、この運動が合法的、かつ非暴力的であることを認めはしたものの、<禅僧たるものは一切、政治運動に関わるべからず>と警告された。さらに<この警告を無視するようなことがあらば、僧籍剥奪ということもやむをえまい>と重ねて言った。

その後反戦運動は続けたものの、幸い僧籍を剥奪されるようなことはなかった。だが、それには当時の駒澤大学教授、横井覺導師や、私が世話になった埼玉県浄空院住職の浅田大泉師の後ろ盾があってのことにほかならない。」(6)

外国から来て日本で修行している僧侶にとって、これが大きな衝撃であったことは想像に難くない。たとえ日本人僧侶であったとし ても、それは由々しき大問題となったであろう事態である。そういう悲しみに打ちひしがれている時に、彼は市川白弦の著書、『日本ファシズム下の宗教』(7) に出会って、これに大きな衝撃を受けその思想に飛び付いた。「ちょうどこの頃、当時花園大学学僧・臨済宗の市川白弦の著書に出 会い、そこに日本の軍国主義の力強い支持者から批判する側へと転換していった彼の苦悩を知って以来、私はまるで<不思議の国のアリス>と二人で冒険に出か けるような気持ちになってしまった記憶が今も鮮明によみがえる」(8)という。非常に感動的な出会いであったとは思うが、この短いしかし大事な叙述の中にもヴィクトリア独特の誇張があるのである。市川白弦を「日本の軍国主義の力強い支持者」だったと描写するのは、市川白弦に対しても失礼であろう。市川は、戦時中既にBAC(Buddhist-Anarchist-Communism仏教的無政府共産主義)を標榜して、仏教者の戦争協力を批判していた。石井公成の「宗教者の戦争責任―市川白弦その人の検証を通して」(9) という優れた小論文によれば、「戦後になって自らの責任と重ね合わせる形で佛教界の戦争責任を追求していった市川白弦(1902-1986)自身、初めは独自のBAC(Buddhist-Anarchist-Communism)の立場から佛教界の戦争協力を批判しておりながら、特高による拷問を恐れて次第に曖昧な文章を、さらには戦争協力の文章を書くようになっていったと自ら述べるように、変化を繰り返した人物なのである。」(10) 悟りを開いた禅僧がこの世に生きる一個人として、社会に対してどのような責任を取りうるかという問題を、BACという彼独特の社会主義思想をもって真剣に追求していた人物である。

市川白弦は、ツェルバツキィの英文研究書の訳注『仏教哲学概論』(11)を出版した時、鈴木大拙に序文を書いてもらうなど、もともと鈴木大拙という国際的禅学者に対する敬愛の情は厚かったようである。この市川白弦が、戦後も十数年を経てから鋭く仏教者の戦争責任を追及する論文を出し始め、1975年出版の『日本ファシズム下の宗教』の中では、1896年十一月出版の鈴木大拙著『新宗教論』を引いてこの著書に出ている大拙の国家観と戦争肯定に対する批判を展開するのである。『日本ファシズム下の宗教』からその鈴木大拙批判をしばらく見てみよう。

いわく、「日本では幕末の真宗僧月性(――1858)の<佛法無上といえども、独立することあたわず、国存するに因て、法も亦建立するなり。・・・・未だ国滅びて法ひとり存する者はあらざるなり。>(『佛法護国論』)にみられ、明治に入ってからは鈴木大拙の<宗教は先ず国家の存続を維持せんことを計り、又其歴史人情に随順せんを要するものなり。>(『新宗教論』)に受け継がれる。」(12) さらに続けていわく、「鈴木はつづいてこう書いている。<故に暴国あり、来たりて吾商業を妨害し、吾権利を蹂躙せば、是直ち に人類全体の進歩を中絶せしめんとするもの、吾国は宗教の名に由りて、之に服従する能はず。是に於てか已むを得ずして干戈を動かす。ただ正義の為に、不正 を代表せる民国を懲らさんとするのみ、吾豈に何の求むる所あらんや。是之を宗教的挙動と云ふ。> 日清戦争 は、人類進歩のために暴国清を膺懲する、宗教的実践だというのである。この論理は少なくとも形のうえでは、さきの十五年戦争を<東亜新秩序建設の聖戦>を 支持する論理にほかならない。鈴木は暴国膺懲の戦争が、清国の日本本土侵攻に端を発したのではなく、戦争の場所は中国大陸であることに思い及ばず、自分の 国の自然と人生を<蹂躙>されている、中国の人民のがわにたって戦争を見る眼をもっていない。この無反省から、大陸侵略の戦争を、宗教の名による宗教的実 践と考えるのである。臨濟録の語法をかりるならば、<人惑を受け、境惑を被る>見解であろう。」(13) そしてこれに付け加えて、市川白弦は、「鈴木の<宗教的挙動>を支えるものは、殺人剣即活人剣・一殺多生の論理である。そしてこの論理をアジア全域にひろげたものが、仏教者、仏教教団の天皇制体験と戦争体験の統合としての<聖戦>体験であった。」(14)とまで極論する。

三つに分けた『新宗教論』からの引用文を含む鈴木大拙批判の最初の二つに関しては、当時の青年鈴木大拙の憂国の情の露呈したも のであり、市川白弦の大拙批判は、その社会主義的観点からすれば、妥当なものだと思われる。しかしながら、心して考えなばならないことは、この『新宗教 論』の書かれた時期である。市川白弦もブライアン・ヴィクトリアも、既に承知していたであろうように、これは、まだ日本が西洋の植民地政策に脅かされかつ 隣国の清と拮抗している時期に、鈴木貞太郎大拙という二十六歳の青年が、禅宗には「見性」というさとり体験を得る以前に著したものである。(15) もしこの見性という さとりの体験が本物であれば、それは一瞬にして別次元の霊性的自覚へ飛躍を遂げる驚天動地の体験であり、大死一番して新世界に蘇生する三百六十度の大転 換、霊性的に未曾有の大変革だったはずである。それまでにどれほど優れた見解を持っていたとしても、それはまだ迷惑の境界を出ないもの、この見性体験を境 にして、青年鈴木大拙のものの見方・感じ方は根本的に変わり始めたに違いない。悟前と悟後の境界には、非連続の連続といった面もあるが、自己理解に根本的 な変化があるのだから、生まれ変わった自分が与えられた現実の環境へどう関わるか、自己の世界への関わり方の自覚も根本的に様相を変えて来た筈である。し たがって、国家に対する見方もその日日の生きざまの中で変わって来る。ところが、不思議なことに、市川白弦も、ブライアン・ヴィクトリアも、おそらくは鈴 木大拙のすべての著書を渉猟して1896年十一月出版の『新宗教論』にまで遡り、そこに第二次世界大戦中の日本仏教徒の戦争協力体制に一脈通じるものを僅かに見出したことを根拠にして(16)、鈴木大拙の禅思想とその国家観が、国家神道を奉じて皇道禅の提唱をした禅者達の指導理念となったというのである。1897年以後のどの著作を取ってみても、鈴木大拙には、「宗教が国家に従属する」というような発言はない。国家に関する見識は、見性 以前のそのような考え方に決して逆行はしていないのである。その後の大拙の言動には、日中戦争、太平洋戦争当時の軍事政権に積極的に協力した形跡は全く見 られない。市川白弦や彼に共感同乗したブライアン・ヴィクトリアは、戦時中の錚々たる禅僧たちが、若き日の鈴木大拙の、しかも見性以前の、未熟といわざる を得ない発言を、その行動の拠り処にしたとでもいうのであろうか。もしそうだというなら、それは実に滑稽な頼りない話である。

私が『新宗教論』を未熟の思想と呼んだことに関して、誤解があるといけないので、この著書には十九世紀末に二十五歳前後の青年 が書いたとは思えないような、斬新な思想見解が展開されているということも、一言申し添えておかねばならないだろう。たとえば、宗教儀式の本義はただ報恩 感謝にあるという洞察、当時の科学の先端を踏まえて科学と宗教の共存関係を論ずる明解な視点、遥かに時代を先取って男女平等の見解に立つ公娼廃止論等々、 全体として未熟とはいえども、著者の天才的洞察力を思わせる発言を散見できる著書である。

ブライアン・ヴィクトリアが問題にしたかったのは、世界の禅者、鈴木大拙であろう。世界の禅者としての鈴木大拙を創り出した要因は、二つあると思う。一つは前述の通り、二十六歳の年(1896年)の十二月五日、円覚寺臘八接心の時の見性体験、(17) もう一つは、その翌年三月より足掛け十二年間続いた米国留学の経験である。(18) 青年大拙が、いわ ゆる悟後の養生をしたのは米国という新天地だった。見性という新生の体験をしたその身を投げ入れて自己を返照したのが、文化も人種も違う異国においてで あったことは、その後の人間形成に大きな意味を持ったに違いない。異国において異質なるものの中で、自己自身、日本という国、そしてその文化伝統を見直す という経験は、そのまま新しい光の下で外国の人々とその文化を再発見することに繋がる。シカゴの近くのラ・サールという美しい小さな町で、自由思想家ポー ル・ケーラス博士の東洋文献の翻訳や著述の手助けをしながら、彼の経営する出版社で1897年より1908年までの約十二年間 を過した。大拙にとっては、その間に習得した英語力が、その後世界に向けて禅を自由自在に語る基礎になったばかりでなく、禅体験を日本ではなくアメリカで 吟味検証したということが、禅と大乗仏教を世界に通ずる宗教として、新しく表現し直すという大仕事を実現可能としたのである。この十年余の悲喜交々であっ たろうアメリカ生活が鈴木大拙の世界観に大きな変化を与えただろうという点がほとんど顧みられることなく、1896年春に脱稿した『新宗教論』の国家観を鈴木大拙が「見性」と「アメリカ留学」を経た後もなお引きずっているという思い込みに立った市川白弦とブライアン・ヴィクトリアの立論は、将来に向けて再考されねばならないだろう。

読者には、それでは鈴木大拙の国家観、ないし国家に対する態度は、どのように変わったのかという疑問があるに違いない。その膨大な書物の全てを通して検証するというのは大変な作業である。ここでは、主として終戦の1945年前後の書物から数例を引用することでその作業に替えたい。

まずは、太平洋戦争の只中1943年に大谷大学の学生を対象に書いた論考「大乗仏教の世界的使命―若き人々に寄す―」(19)から二、三の引用。

「今までの日本仏教は本当の意味での大乗仏教ではなかつた。余りに島国的政治性を帯びて居るので、その面では、兎に角、環境相 応の存在的意味を持って来たが、今日ではそれ以上に出ることは許されないのである。それで、布教的精神に燃えて海外に出て一生を草叢の間に終わるといふよ うな仏教徒は居なかつた。此点では、基教徒、特に加特力教徒の奮闘的精神に対して大いに遜色あるを覚ゆるのである。国の中では捨石になる覚悟を持つて居て も、国の外で、異域で、異国人の中で、生きて居るか死んで居るかわからぬと云ふやうな生活をして、自分の信ずる道に殉ずると 云ふやうな仏教徒は、まだ日本にはひとりも居ないのである。これは<日本>仏教と云ふものの性格から出てくる自然の事象である。」(20)

「つまり大乗仏教徒は自分の所信が世界性を持って居ると云ふことを了解するに止まらず、その世界性を世界的論理で、世界的に論 述し宣布しなければならぬのである。これには伝灯や歴史を一旦は否定する必要があらう。吾等は今世界的に一大転回し百八十度の転回を要求せられて居るので ある。このきつかけは偶然な事実から出たとも云へる。或はある集団の、抑制を逸脱した行動から出たとも云へる。その発生の直接動機は何であつたにしても、 昭和十八年の今日は、吾等に迫りて世界的に吾等の持つて居た文化と思想の一大転回を求めるのである。この要求が大乗仏教徒の誰かの心の底に響きさうなもの である。否、その響きは誰にもかにも聞かれてあると信ずる。但々それに応じて起ち上がるだけの準備がまだ十分でないのであらう。鎌倉時代に於ける親鸞聖人 は、その時代が大地から呼びかけた魂の響きにふれて、どんな風に伝統を否定したかを見よ。

聖人までの伝統思想は、衆生がその善根功徳を菩提に廻向すると云ふことであつた。それを彼は如来からの廻向と読んだ。これは伝 統思想に対しての真正面からの否定である。下から行くものが上から来ると云ふことは、彼以前には考へられなかつたのである。一旦考へ出されると何でもない やうに思はれもするが、始めてこれに考へ及んだと云ふことは飛躍である、横超である。大乗仏教には始めから回互性の哲学思想があつたが、これを意識して文 字の上に表現したのは親鸞聖人の天才である。真宗教徒は、それから発展して来た伝統的概念体系と肉食妻帯の実践とを、(真宗には<僧侶>はないのであ る、)一所懸命に研究し生活してきたが、今日ではそれだけで済まされぬ、どうしても聖人の宗教的体験そのものに飛び込んでこなければならぬ。話はそれから である。これが或は真宗教徒に呼びかけられて居る一大転回かもしれぬ。」(21)

「次に眸を放つて世界に於ける近代思想、特に科学思想が如何なる影響を文化の諸方面に与えつつあるかを見ようではないか。吾等 は精神的で彼等は物質的だなどと云つて、安価な己惚れに起居しては居られないのである。自分は精神的だとか道義性の専売特許をもつて居るなどど云つて居る ものほど、物質的で非道義的なものはないのである。両眼と双耳とを蔽ひ匿されて、他の云ふままに、左を向き右を向くものならいざ知らず、苟もすこしく自ら内に省み外を観察するだけの知能のある仏教徒なら、何が事実の上に、彼等の身辺に動きつつあるかを認識し能ふのである。彼等はだまされて居るとは云はぬが、彼等は確かに自らの耳目を十成に活用しては居ないのである。」(22)

「兎に角、今時の仏教徒には何れの方面に向かつても一大転換の事実を成就させねばならぬものがある。若き生ける仏教徒は深く思いを此に致してほしいのである。」(23)

以上大谷大学で若い仏教徒に訴える鈴木大拙の意のあるところは、一目瞭然である。昭和十八年(1943)という世界大戦のただ中で、あたかも耳目を覆われたが如くに、安価な精神主義を唱えつつ、大政翼賛会体制に飲み込まれている 仏教徒に、何が起こっているのか、両眼と双耳を開いて事実に目覚めよと呼びかけているのである。このような発言が、当時の官憲に目を付けられれば、投獄拷 問もあり得た戦時体制下での発言である。鈴木大拙はただ黙していた訳ではない、当時の大政翼賛的状況への痛烈な批判をもって、これからの若い人たちに切々 と大乗仏教への目覚めを訴えていたこの事実を知らねばならない。

以下に紹介したいと思うのは、『霊性的日本の建設』(24)に 編集された二篇の論文からの抜粋であるが、この書物の第一篇は終戦直後昭和二十一年(1946)に書かれた「霊性的日本の建設」、第二篇は終戦直前の昭和 二十年(1945)の六月に東本願寺の教学研究所での講演のために送られた「日本的霊性的自覚」という原稿である。当時の鈴木大拙は、昭和十九年 (1944)の『日本的霊性』の公刊以来、戦時下の軍事政権がその精神的基盤としていた国学者の「思想神道」に対して厳しい批判を加えつつ、新しい指導理 念として浄土教の法然聖人、親鸞聖人に見られるような「日本的霊性」の目覚めを唱導しつつあった。時間的順序に従って、まずは終戦直前の「日本的霊性的自 覚」の方からはじめたい。戦時中に予定されたこの講演に参加した聴衆の声(翌年出版時の編集後記)をまず紹介したい。

大谷教学研究所の名において、いわく。

「敗戦以来十箇月、新日本建設の声のみ徒に高く、無秩序と退廃の風潮は漸く激化して、今や祖国崩壊の前夜に在るが如き現実を直視する時、真に克くこの危機を背負い、これを超克するの途は、一に正法の開顕以外にあり得ないことは、我々の確信である。

茲に我が大谷教学研究所は、動乱の現実に一大燈炬を与ふべく、艱難を排して『大谷教学叢書』の刊行を企てることにした。本書は、もと、昨年六月当教学研究所が第一回の講習会を開催せる際、講師の一人たりし著者(鈴木大拙)の原稿である。当時 空襲漸く激化して、ついに出講不能となりたる著者は、全国より参集せる聴講者の上に思ひを馳せ、烈々たる所信を披瀝して、開会直前本稿を当研究所にとどけ られたのであつた。当時、杉平顗智氏の代読を聞きつつ、異常なる感銘を覚えたのであるが、敗戦後の今日、改めてこれを繙く時、現前の危機を克服し得る途 は、ここに既に明示せられ、惻々として我等の心根を打つ。

敢えて本書を『大谷教学叢書』の第一巻として世に送る所以である。」(25)

昭和二十年六月いよいよ空襲が激しくなってきた軍国主義政権下の日本で、国家がその基盤として依存していた神道思想を批判する 原稿を用意した講演者鈴木大拙の原稿代読と、全国からそれを聞きに集まった聴衆、異常なる緊張のもとで催された説聽一如の会合の様子は、想像するだけでも 大きな感動をもたらす。勿論官憲の眼の光っている当時のこと、激烈なる軍事政権批判の言葉は見られないが、そこに精密に展開される神道思想批判と日本的霊 性高揚の意図する方向性は明白である。用心深く極力抑えた表現である分当時の緊張感が伝わってくる。本稿では三箇所だけの引用にとどめたい。

その引用に入る前に、ここで一言断っておかねばならない大事なことがある。鈴木大拙が日本的霊性的自覚の提言において神道を批 判する時、その批判の対象となっている神道は、伝統的な素朴な民俗信仰としての神道ではなく、天皇を現人神として絶対化することによって国家権力と結託し た「思想神道」、後には「国家神道」と呼称されるようになったファシズム的「人間のさかしら」であることを忘れてはならない。たとえば、日本的霊性の自覚 として「そのまま」の救いということが言われる時、それは罪業深き個己の人を通して自覚されて来る「神ながら」の道の顕現ともいえるのである。『日本的霊 性』中の大拙の言葉を借りるならば「此世の生活が罪業と感ぜられる。さうしてその罪業が何らの条件もなしに、唯々信の一念で、絶対に大悲者の手に摂取せら れると云ふことを、吾等現在の立場から見ると、その立場がそのまま、それでよいと肯定せられることになるのである。即ちこれは自然法爾である、只麼の禅で ある、無義の義である、神ながらの道である、言挙げせぬことである、<ひたぶるに直くなむありける>その直心そのものである、<人間のさかしら>を入れな い無分別の分別である。」(26) 日本的霊性の自覚は、伝統的神道の深奥にある「神ながら」が個己の自覚として顕現したものであるともいえる。伝統的神道の否定ではなく、むしろその本来の霊性的自覚の主体的な顕現をたすけるものである。

さて本論に戻って、『霊性的日本の建設』所収の二篇の中、戦時中に書かれた第二篇「日本的霊性的自覚」から三つの節を引用しよう。

「自分は<日本>と云ふ言葉をどう云ふ風に使ふかにつきて一言しておく。それは地域的民族的意味にのみ使はれるので、其他の意 味を持たないことにしたいのである。即ち日本と云ふ地域、東洋の一角に空間的位置を占めて居る場處、そこに棲息して居る民族或は人類の間に自覚せられた霊 性的自覚を、日本的霊性的自覚と云ふのである。霊性の概念は云ふまでもなく普遍性を持つものであるが、其自覚は個人個人の上にある。そしてその個人個人は どこかの大地に居て、どれかの民族に属するのである。それ故、霊性的自覚の上に<日本的>を冠することが出来ると思ふ。」(27)

ここで鈴木大拙が言及しているのは、大拙の説く「日本的霊性的自覚」というのは、普遍的霊性的自覚が日本という特殊地域で現れ たものであって、中国には中国の、イギリスにはイギリスの霊性的自覚があってしかるべきであるということである。たとえば、イギリスの大地に住む人々の間 では、イギリス的霊性的自覚というものが当然の道理として考えられねばならぬ。日本的霊性の自覚は、世界的な広がりをもつ霊性的自覚の呼びかけである。

「云はなくてもよいやうで、やつぱり云つておく方が、何らかの誤解を防止する役に立つだらうと思ふことがある、― それは此で 云ふ<日本的>には絶対に政治的意味のないことである。……政治はいつも力である、威力、権力、圧力の源泉である。霊性にはそのようなものはない。それは 徹底的に大悲である、大慈である、誓願である、無辺無尽の悲願である。力はその中から出てくる。その中から出た力でないと、力は必ず暴圧的なものになる、 排他的自尊心となる、帝国主義、侵略主義、兼併主義など云ふあらゆる歪曲性を持つた力の行使となる。活人剣で裏付けられぬ殺人刀ほど非道なものはないので ある。政治から決して霊性的自覚は出ない。政治は霊性的自覚から導き出されなくてはならぬ。その逆は嘘である。必ず崩壊と収拾不能を伴ふものである。殷鑑 遠からず、ドイツを見よである。」(28)

「今回の講演ではまず大略此邊以上に出る時間がない。拙著『日本的霊性』も亦固より尽しては居ない。これから益々此方面の研究 を進めていく所存である。真宗のお方は、自分が今までの講述で、真宗の佛教性が消えて、何もかも日本的霊性的自覚に摂収されたのかと思召すかも知れない。 併し自分の意図はそこにあるのではなくて、日本的霊性的立場と云ふようなものが考へられる、さうしてそこから所謂る「佛教の日本化」を観察したいと云ふの である。佛教者のあるものは、<日本化>を余りに強調して、時局下の思潮 ― 中には甚だ不穏なものもあつて、或は大いに国家に禍するものもある と思うが、そんな思潮をも鵜呑にして、日本化、日本化と云ふのである。自分はこれと反して日本的霊性なるものの主体性を主張し、そこから佛教の日本化なる ものを見ようと云ふのである。このように見方を変へてくると、所謂る<日本化>なるものが世界性を持つのである。世界性のない精神文化なるものは死骸と同 じい。外に出て外のものを摂取し消化するだけの生命力を持ち得ない。従来の意味の<日本化>なるものは、佛教を例に取って見れば、佛教を固形化すること、 ある意味では、化石性を持たすことで、佛教の死滅である。佛教を活かし、真宗を活かす、殆ど唯一の途は、日本的霊性的自覚の主体性に注意するより外ないと すら考へて居る自分である。ここで日本的なるものが世界性を加へて来るのである。」(29)

次に、終戦直後に書かれた、第一篇「霊性的日本の建設」からは、一文だけを引用することにしたい。

「我が<神国>の現在は実に魔王の荒れ狂うままに放置されているではないか。ただ天罰だとか天譴だとか云つてのみは居られない。彼ら(国家神道信奉者)の云ふ<雄大な規模>なるものに何か極めて不健全なものがあるに極まつて居るのである。(平田)篤胤の所説を以て <古より今に至るまで、国学の思想的中枢たるもの>となす人々の責任は十分に問はれて然るべきであらうと、自分等は信ずる。日本は先に共産主義を以て国体 を破滅に導くものとして、厳罰を加えた。篤胤一流の国学者は実に<国体>だけでなく、その内容をも併せて崩壊の一途を辿らしめて居るではないか。」(30)

以上の数例の引用から解るように、見性体験とその後の十二年にも及ぶ西洋世界滞在を経て大いに変っただろう鈴木大拙の日本国家 に対する見方は、1896年十一月(大拙二十六歳)出版の『新宗教論』中のやや国粋的な国家観、つまり「宗教は先づ国家の存在を維持せんことを計り、また 其歴史人情に随順せんを要するなり。」(31)と言う発言に見られるような国家観からは遠く隔たったものになっていた。『新宗教論』中の「宗教と国家の関係」という章では、 そのほかにも「既に宗教は国家を體として存すべく、国家は宗教を精神として発達すべしとせば、この問題を解決するは容易の事なり。曰く、宗教と国家を渾一 する、これのみ。即ち国家の一挙一動をして宗教的ならしめ、宗教の一言一行をして国家的ならしめば、国家のためにするは即ち宗教のためにするなり。宗教の ためにするは即ち国家のためにするなり。」(32)という発言がある。まだ極めて観念的でありそれだけに危険性があることは一目瞭然であるが、これは後に世界に向けて禅を説いた鈴木大拙の国家観ではないことを知らねばならない。

次に紹介する戦後昭和二十三年(1948)に書かれた『国家と宗教』(『鈴木大拙全集』第9巻所収)における鈴木大拙の国家に対する考え方は、『新宗教論』におけるそれとは全く違うものになっている。

「自分の見解では、国家を先において、それから宗教を考ふべきでなくて、その反対が真実だと思ふ。即ち国家に宗教を順応させな いで、国家を宗教に順応させるべきだと云ふのである。<今まで>の国家はどんなものであつたかは、試験済みだ。宗教に団体として加へた圧迫、及び宗教が国 家を頼つて道ならぬ利欲を獲得しようとした策謀 ― 何れも見苦しいことの限りであつた。これは<これから>の吾等の生 活の上に繰り返したくない。国家を先にしないで、宗教を先にしなくてはならぬ。宗教と国家は没交渉だと云つても、事実、宗教的個己はまた政治的個人であ る。できるなら此個人の環境をして極楽浄土の写しにしたいものである。それはなぜかと云ふに、宗教の世界は絶対個己の世界ではあるが、これは政治生活や集 団生活又は経済生活から隔離し絶縁したものと考へられてはならぬのである。上述のところでは、宗教をその絶対個己的自覚の上で見たが、宗教にはまた相対性 の一面があるのだ。それを忘れてはならぬ。即ちその面で宗教が知性の上に現はれてくる。知性は絶対独自の世界ではなくて社会性を持って居る。知性の世界は 集団の生活に外ならぬ。それで宗教は国家の上に動き出る。さうしてこの国家は宗教的知性を持ったものでなければならぬと云ふことになる。」(33)

国家と宗教がいかに関係するのか、もう少しその内容に立ち入って問うとすれば、霊性的自覚を持つに至った個己は、その現実世界との関係をどのように自覚し生きることになるかという問になるであろう。

「上来の所述を要約すると、宗教とは霊性的自覚の世界を云ふのである。この世界からすると、国家などはどうあつてもよいのだ。 如何なる形態の国家でも宗教をどうするわけに行かず、また宗教のほうで国家などになんらの関心を持つものでないのである。それは、絶対的個己の立場から云 ふと、宗教は所謂る物外に超然として居るのである。天地の生成と破壊にさえ没交渉の立場を持つ宗教は、国家と云ふ空間と時間に制圧せられた人々の制度に対 しては大した関心を持ち得ないのである。

併し霊性的自覚の世 界はそのままで存在するものでない。それは必ず知性又は理性の世界に出るべきものである。即ち差別界に出て始めてその意味を十全にする。此點で宗教は国家 の経営に大いに関心を有する點があるのだ。一方では無関心で他方では多大の関心がある、宗教にはこの二面がある。それで宗教は国家に対して自由の制度を要 求する。自主の原則が十分に働きうるような集団生活の構成を要求する。限定または制扼と考へられるものは、国家から出ないで自主的相互契約の結論とならな くてはいけない。」(34)

これは現実の鈴木大拙の生きざまを彷彿とさせる文章である。この超個の人は日常底において物質的世界の外に超然と霊性的自覚の 境界を楽しんでいた。そして同時にその超個の個己の置かれた立場、社会乃至集団生活に対する責任に明らかな自覚を有していた。晩年のある日、国勢調査が あった時、この老哲学者が「佐藤さんは国政調査を済ませたかな」と問いかけて来た。「いいえ、済ませておりません」と答えると、「日本人には全体に対する 責任感の欠けるところがあるんだ」と注意された。鈴木大拙はそういう日常底を一つ一つきちんとこなしていた。いうまでもなく、そういう日常茶飯事ばかりで なく、戦争のような国の大事に対しても、自分自身の責任は明確に自覚していたのである。しかも、霊性的自覚を失うことなしにである。超個己の霊性的自覚を 保ちながら、第二次大戦中に日本国民が、仏教徒が、身近な禅宗の僧侶たちがしていることの間違いを、与えられる情報に限りはあったが、知っていたというこ とは、大変苦しいことだったに違いない。だからこそ鈴木大拙は、さきに僅かな例を挙げて述べたように、事情の許す限り、危険を冒してでも、大谷大学の若い 学徒に対して、あるいは浄土真宗の僧侶のグループに対して、当時日本全体が大きな間違いを犯している只中、彼らがあるべき道を自覚するように訴えかけたの である。幸いにして、官憲の手は鈴木大拙にまで伸びなかったが、大拙自身が敢えてきわどい発言をしていることを知らなかったはずはない。周知の如く、当時 の日本は印刷物等に対する特高の検閲は厳しく、特に第二次大戦中は露見すれば投獄拷問に繋がっていた。大拙はじっと我慢して時を待っていた。比較的安全だ と思われるような浄土真宗関係の人たちのところには、危険を承知の上で積極的に出かけて行き、言葉に注意しながらも本当のことを伝えようとした。だから、 当時の軍事政府に対しての積極的協力の言行などあり得ないことだった。もしや、鈴木大拙批判を展開する人々は、鈴木大拙は当時の官憲の投獄拷問をも恐れず にどしどし発言すべきだったという立場からの批判であろうか。私自身は、忍耐して頂いてよかったと感謝申し上げている。

終戦直後から堰を切ったように戦争批判を書き始めたのは、上述のような背景があったからである。それは、単に危険が去ったから 批判を始めたというのではない。終戦後の混沌とした状態の中で、逆戻りもしかねない日本国民に対して、思想家に対して、あるいは仏教徒に対して、日本がど んなに間違っていたかを自覚してもらうために、そしてあるべき方向を明確に提示するために、断固たる決意を以って批判を書き始めたのである。そういう大拙 の戦争批判の中に、昭和二十年(1945年)九月一日発行の雑誌(『丁酉倫理』第513輯)に掲載された「知性不足の日本人」(『鈴木大拙全集』第三十三巻所収)という一文がある。ということは、この一文は、昭和二十年(1945)八月十五日の無条件降伏直後に草されたものである。鈴木大拙という人がこの戦争をどう見ていたかがよく解るので、少々長くなるけれども引用することにする。

「第一に今度の戦争には何らの名分がなかつた、主張がなかつた、誰が聞いても成程と思はれるやうな思想的背景はなかつた。満州で始められた戦争は純粋に略奪的帝国主義の行為であつた。」(35)

「満州が兎に角片付くと、北シナに乗り込んだ。満州だけでは日本の生存が経済的に確保できない、どうしても北シナへ進出しなけ ればならないと云ふのである。北シナでも調子よく行つたので、これを天皇陛下の御稜威と云つた。陛下にとつてこれほど迷惑なことはなかつたと信じてよい。 <御稜威>は、文殊菩薩の活人剣の如く、又不動明王の降魔の剣の如くでなければならぬ。満州でも北シナでも、此種の剣を、日本軍は使用しなければならなか つたであろうか。彼等は吾等に対して何らの危害を加へるものではなかつたのである。……如何にも露骨な侵略的武断的帝国主義の肯定に外ならぬ。」(36)

「北支から中支、南支へと、所謂<聖戦>なるものが拡大された時、吾等国民一般には、何の拡大であるか、全く五里夢中であつた。軍閥と財閥が只勝手に勢に任せて南下するものとしか考へられなかつた。それから南京における非人道的な残虐行為 ― 国民には全く隠蔽せられて居たが、外国へは筒抜けに知れて居た其暴虐無比な行為 ―、何のためにそのやうなものが<聖戦>付加物となり、<皇軍>の是非やらなければならぬ行為であつたか、国民には全くわからなかつたのである。」(37)

「中・南支における<聖戦>なるものは、自ら他国の利権を侵害することになつた。この他国と云ふものも亦固より博愛人道に終始 しているものではないが、兎に角、一方が力を行使すれば他方もこれに対抗して力を行使するに決まつて居る。これが戦争なのだ。元来、全ての戦争には<聖> なるものは決してないのである。<聖>は力を超越したところにのみ顕現するものである。併し日本の軍閥は何でもかでも<皇>軍と<聖>戦とで押して通し た。」(38)

「かうしたことから、シナで米英との衝突を来した。米英に対しても<聖戦>呼ばはりをやつたが、今度は少し趣を変えて、<大東 亜戦争>と云ふ名称をつけた。これは理由の立たぬことはなかった。東亜の民族は何れも欧米の強国から圧迫を受けて居た。彼等はそれから解放せらるべきで あった。併しこれをやるには少なくとも二つの条件が必要である。一つには圧迫下の東亜民族そのものに独立の意志と努力がなければならぬ。さうして又一つに はこれを援助するという日本そのものに十分の実力がなくてはならぬ。然るに<大東亜戦争>にはこの二つともが欠けて居た。ことに第二の条件は我国にとりて は皆無であつた。」(39)

「それなら日本は何故にこの無謀を敢えてしたか。ここに軍閥の無分別が曝露せられるのである。シナの<聖>戦がどうしても片付かぬので、新たな名でこれを東亜の前面に拡げたのである。軍閥や財閥の思想の貧困さがいかにもまざまざと見せつけられる。箝口令のもとに喘ぐ国民一般は兎に角として、重臣とか国会議員とか云 ふ側の人達が、この無謀の挙に対して、軍閥や財閥を押へ得なかつたと云ふことが、吾等にはどうしても解し得られないのである。緒戦には花々しいものがあつ たにしても、それは素人欺しにはならうが、玄人の眼からすれば、危険此上もなかつたのである。それにも拘はらず、あるいは正にその故に、彼等は益々欺瞞と 威嚇を以て国民に臨んだ。大部分の国民は群集心理で動くより外何も知らないのである。小数の知識人のみは大体の見透しを付けて居たのであるが、彼等はあら ゆる意味で言論・行動の自由を奪われて居た、袖手傍観の外はないのであつた。さうして戦争は遂に今日に至つた。」(40)

「愈々終局になつてから、国民は鳶に油揚でもさらはれたやうに、只茫然としているのが精精であつた。少し気がつくようになる と、官僚は国民総懺悔だと叫ぶ。国民は何を懺悔してよいのか全くわからぬ。深い情性から出た懺悔なら、日本人だけがすべきでない、全世界の人類、勝者も敗 者も、共に心の底から懺悔すべきである。それを敗者のみの懺悔とは何の事か。特に指導者なるものに、左向けと云はれて左向き、右向けと云はれて右向いた国 民は、何を自分の罪業として、それを悔ゆべきであろうか。懺悔すべきは、今まで戦争をやつた、さうしてやらせた人達 ― 軍閥・財閥・官僚・重臣・上層階級の人達 ― ではなからうか。彼等は口だけの懺悔でなく、もつともつと実際的に 行為的に、懺悔の真実を挙ぐべきではなからうか。ただの国民から見れば、これほど非道理の云ひ分を聞かされることはないのである。さうしてそれを殊更に非 道理とも没思想とも考へないで、只黙々として居る日本人、時には雷同附和して、総懺悔を口にする日本人もあると云ふことは、いかにも彼等の理性を欠いてい る事実を明白に証明するものではないか。」(41)

鈴木大拙は、各自が自主的に知性を働かせて行動すべきところに、上から国民総懺悔など要請するのは、非道理であるといっている ので、懺悔すべきでないと言っているのではないことは当然自明の理、責任を自覚するものが懺悔すべきはいうまでもない。大拙に「尽きぬ懺悔」という一文が あって、「永遠の平和を望みつつ常時の闘争を続けて止まないのが、人間の運命らしい。建設しつつ破壊し、破壊しつつ建設すると云ふのが、人間歴史の真相な のか。しかし無窮の輪廻ではどうも割り切れないものがあるやうで、安心のしどころがない。それなら人間は畢竟どうしたらよいのか。ここに一つの方便があ る。『普賢行願品』の一節に懺悔を教える。常時懺悔である。念念相続無間断の懺悔である。」(42)

これも終戦直後に書かれたもので、昭和二十年十月の雑誌『大法輪』(第十二巻第六号)に発表された「新生日本と佛教」というエッセイは、終戦後の佛教僧への提言である。その中の「戦争前から戦争中にかけての仏教者の言論行動を一一調べて見たら、実に奇奇怪怪なものがあらう」(43) という一文を含む次の一節は、仏教者の戦争責任を論ずる文脈では非常に重要である。具体的な仏教者の戦争責任の追及は、市川白弦等によって戦後十数年を経て始まり、本格的には1970年前後から推し進められるのであるが、鈴木大拙のこの一節は、あたかもそれを予見するかのごとくであり、完全にそれを先取りし た形で、終戦早々にこれを書いていたということは、この禅哲学者がどれだけ透徹した眼で周りを覩ていたかを示すもので、実に驚嘆すべきことである。また、 その時点で、この発言をなし得た彼の見識と勇気を評価すべきではなかろうか。敗戦と同時にこのようなエッセイをものしたのは、非道にも戦争協力体制をとっ た佛教界のあるべからざる事態に、痛切な責任を感じていたからに違いない。

「今までの佛教は鎮護国家で動いて居た。戦争中は殊にこれがやかましく云ひ囃された。神道者から何か云つて責められると ― 佛教には、国家思想がないとか、天神崇拝をやらぬとか、皇道的道義がないとかなどと云つて攻められると ―、仏教者は躍起になって、<皇道佛教>を称える、聖徳太子の十七條憲法を担ぎ出す、歴代の詔勅が繰り返される。佛教の本領 は、只管に<国家>と結びつき、皇室と関係づけられることに由りて挙揚せられるものと、彼等は考へて居るらしい。戦争前から戦争中にかけての仏教者の言論 行動を一一調べて見たら、実に奇奇怪怪なものがあらう。彼らに自主的思索と 云ふべきものの片鱗をも認められぬのは、何と云つても今日の痛恨事である。」(44)

昭和二十一年六月十七日から二十一日まで大谷大学の学生に向けての講演が、『日本の霊性化』として法蔵館から出版されている。 この中で和辻哲郎の『日本の臣道』や下程勇吉の『日本倫理を貫くもの・まこと』を取り上げて、天皇陛下を現人神に祭り上げた国家神道の哲学をかなり詳細に 手厳しく批判している。滅多に人を名指して批判することのなかった大拙が公の場でそうしたということは、所謂国家神道の再燃を許すべきでないという信念の 現われであり、国家神道の思想を超える道としての日本的霊性自覚の唱導であった。ここでは、和辻哲郎の『日本の臣道』批判の一例を紹介するに止める。

「和辻教授の此所述は、今日云ふ行過ぎ国家主義のイデオロギイである。……特に天照大御神を撰びだしてこれを<現御神>の天皇と聯関させるところに、『日本の臣道』の著者の政治的意図が看守せられるのです。彼は日本国家を以て絶対神からの<途中の神(天照大御神)>によりて経営せられるものとして居ります。さうして此<途中の神>の方が絶対神よりも具体的で、世界宗教と云はれるキリスト教や佛教などよりも、<排他的でなく>又<一段高い立場>に立つものと考へて居ります。それから此<途中の神>の生物学的後裔たる現御神(天皇)は、<途中の神>と同じく絶対的神聖性をもつものであるから、彼を尊崇することは、やがて<途中の神>を尊崇すること、又随って絶対神への繋がりを認覺するものとして居るのです。」(45)

鈴木大拙のこの同じ著書の中に次の一文がある。この文章を特別にこの文脈で引用するのは、ヴィクトリアが『禅と戦争』の中で、大拙を積極的戦争協力者として描き、真剣な反省や懺悔はなかったかのように言っているので、その反証としてここに提出するのである。

「武断主義になると、人命の上でも財産の上でも非常な犠牲を出すことになるのみならず、被侵略国の方では、種々な方面で非常な 圧迫を受けることになる。単に人道主義の面から見ても、戦争するものは、人間の命を何とも思つて居ない、人を切ること麻の如しと云ひますが、現に敵するも のだけでなく、女でも子供でも無茶苦茶に殺してしまふと云ふことになる、聞くだけでもぞつとする。ヨーロッパの一隅に崛起した所のドイツ民族を指導して居 つた人達だけが残虐行為をやつたのかと思つていたら、日本人のやり口も中々に尋常ならぬやうであつたと聞かされて、吾等は慙愧に耐へない次弟であります。 戦争は元来狂人の仕業であるから、尋常一様の道義観では批判せられぬと云ふかも知れぬが、善良な人民を駆つて、こんなことをやらせる指導者たちには大責任 がある、絞首の刑を云ひわたされるのも当然と思われるのです。これは敗者だけの反省すべきところではなくて、勝者も共に自誡すべきであらうと考へます。そ れは何れにしても、吾等敗戦国の人民としては、何事も忍従と懺悔で、これからの進むべき途に進むべきことを勤むべきであると信じます。」(46)

ここに日本人の残虐行為について懺悔しているのは、南京の大虐殺やシンガポールでの華人大虐殺の事であろう。終戦と同時に書い た「知性不足の日本人」という一文にも、南京大虐殺に触れていたことは、既に紹介したとおりである。この南京の虐殺やシンガポールの虐殺については、ほと んど戦争を知らなかった私どもでさえ、中国人民に対して「吾等は慙愧に耐えない次弟であります」という懺悔の心情を鈴木大拙と共に頒かたざるを得ない。

ついでにヴィクトリアの『禅と戦争』から次の文を紹介して、一考して頂くことにしたい。

「ここでさらに注目すべきことは、大拙は戦争そのものをばかげたことといったのではなく、それはあくまで太平洋戦争に限定し、<おそらくやまず正当化できない>ものとした。彼の書のどこにも日本の台湾、朝鮮、中国への植民地政策に対する悔いや謝罪は見当たらない。」(47) といい、ヴィクトリアはさらに「なぜなら彼は、アジアでの軍事活動に限っては支援者の一人だったのである。これを見るには、 1943年、日本の若い仏教者に向けて次の文章を発表している。<『大東亜戦争』と云ふが、その実は思想的に東亜文化の抗争であると見てよい。仏教者はこ の抗争に加わって自らが持つ本来の使命を果たさなくてはならないのである。> こうした文章を読む時、大拙にとって日本がアメリカを攻撃し始めて事が間 違った方向に進んだといわんばかりでないか。彼にとってなぜ太平洋戦争だけが<ばかげていた>といえたのか。」と煽り立てる。(48)

この引用の前半部分に「おそらくやまず正当化できない」という多少解りにくい訳語があるが、大拙のもとの言葉は、”it was probably completely without justification.” であるから、「おそらくは全く正当化できないものであった」という意味である。原意を理解しやすくするために老婆心ながら一言付け加えておく。「彼(大拙)の書のどこにも日本 の台湾、朝鮮、中国への植民地政策に対する悔いや謝罪は見当たらない」というヴィクトリアのこの発言が間違っていたということは、もはや言うまでもないこ とであるが、それに続く引用文も、注意して読めば、ヴィクトリアの意見は大拙の文章を誤解した間違いが原因であることが解る。ヴィクトリアの解説に従って 読むと、「大乗仏教の世界的使命―若き人々に寄す」というこの一文において、鈴木大拙はとんでもない発言をしているということになる。大谷大学の学生に向 かって仏教徒は大東亜戦争に積極的に参加すべきだと説いているというのがヴィクトリアの観方である。鈴木大拙がそんなことを言うはずがない。もう少し注意 深く読んでほしいのである。大拙は、思想的な側面に焦点を絞って話を展開している。「この抗争に加わって」というのは、ヴィクトリアが早合点したように少 しわかりにくいのではあるが、よく読んでみると「仏教徒はこの抗争に加わつて自らが持つ本来の使命を果さなくてはならぬのである」(49)というのは、若い仏教徒であるあなたたちは、東亜(西?)文化の思想的対決に参画して、仏教思想を宣揚していかねばならないという意味である。ヴィクトリアの引用文を含む一節と直ちにそれに続く一節とをみれば、一目瞭然のことなので、それを紹介することにする。

「異質的西洋文化思想の襲来に際して、仏教徒は仏教徒として、自分等の今までの考へ方、即ち<過去>に向かつて、清算し否定すべきものを、清算し否定して、新局面の展開をやらなくてはならぬ。<大東亜>戦争と 云ふが、その実は思想的に東亜(西?)文化(50)の抗争であると見てよい。仏教徒は此抗争に加わつて自らが持つ本来の使命を果たさなくてはならないのである。」(51)

「文化思想の方面では、抗争と云い相克と云い頡頏と云つても、相手をねじふせて動かぬやうにすると云ふことはない。特に相手の 思索方法や装備や歴史などと云ふものが、自分等のものに対して、必ずしも劣等であると云へない場合は、それを絶滅させるなどということは、事実不可能でも あり、また自分にとりて却つて不利である。西洋文化は東洋のとその質を異にするが、またそれだけに、吾等はそれを取り入れてよいのである。それから又相手 の人々も吾等のを取り入れなくてはならぬのである。吾等としては向こうのものをしてさう云ふことになるべき心持を起さしめなくてはならぬのである。この役 割は実に仏教に課せられて居る。何故かと云ふに、東洋的文化思想の中軸に動いて居るものは、仏教思想だからである。」(52)

大拙がここで言おうとしているのは、到底勝ち目のない戦争に巻き込まれている日本の若い仏教徒に対して、やがて来るだろう敗戦 を思いながら、「清算し否定すべきものを、清算し否定して」「新局面の展開をやらねばならず」、その場合でもあなた方仏教徒は、東西思想の拮抗に参加して 本来の仏教思想を伝えてほしいと説いているのである。そして、1943年の時点で日本の佛教青年に西洋文化の吸収を薦めている。ヴィクトリアの誤解が、おそらくは東西文化が東亜文化と誤植されてい たことに関係している点は、まことに同情に値するが、それにしても、この例に見られるように、鈴木大拙の文章・思想の読み取り方にかなり先入主が入ってし まっていること、否定的バイアスがかかっていることがかなり多いのである。

次に『日本的霊性』に関するヴィクトリアの見解の問題に入る前に、『禅と戦争』の中で繰り返されている鈴木大拙批判に対して、特に「剣禅一如」や「活人剣」の思想をめぐって、二、三の文章をひきながら幾つかの疑問を提出してみたい。

ヴィクトリアは、『大法輪』に載った沢木興道の一文、「法華経の<三界は皆是れ我が有なり、その中の衆生は皆是れ吾が子な り>。ここから出発すれば、一切のものは、敵も見方も吾が子、上官も我が有、部下も我が有、日本も我が有、世界も我が有の中で、秩序を乱すものを征伐する のが、即ち正義の戦さである。ここに殺しても、殺さんでも、不殺生。この不殺生戒は剣を揮う。この不殺生戒は爆弾を投げる。だからこの不殺生戒というもの を参究しなければならん。この不殺生戒というものを翻訳して、達磨はこれを自性霊妙といった。」を引用したすぐ後に、こう付け加える。

「ここまで述べてきた興道の考え方とは、鈴木大拙をはじめとする禅の信奉者たちの幅広い考えのひとつである。つまり、<無我> の境地、つまり<絶対の境地>に入ったとき人は、人を殺そうが、爆弾を投げつけようが、その行為は本人の意志の外側に存在するもの。ゆえに本人の意志とは 無関係な型で行為そのものが実行されたのであれば、当然本人の決断や責任はまったくないというものである。」(53)

こういう文脈で、鈴木大拙の名を根拠なしに引き合いに出すことは、絶対にやめてほしい。まず、沢木興道の発言は、これがもし本当だとすれば、全く狂気の沙汰としか言いようがない。恐ろしい慢心に基づいた乱暴極まる佛法の濫用であり、1942年という著述の日付を見れば、仏教者としてあるべからざる当時の軍事政権への追従だとしか思えない。この高名な禅師の異常な言 は、先に引用したが、終戦直後に大拙がいみじくも断言した「戦争前から戦争中にかけての仏教者の言論行動を一一調べて見たら、実に奇奇怪怪なものがあら う」という発言中の「奇奇怪怪なもの」の一例といわねばならない。ヴィクトリアのこういう発言を見れば、何も知らない人々は、大拙も同じようなことを言っ ているのだと思うではないか。これは、実に巧妙な、根拠のない鈴木大拙への中傷である。ヴィクトリアがどうしてこのような発言をするのか、理解できない。 大拙がどこかで「<無我>の境地、つまり<絶対の境地>に入ったとき人は、人を殺そうが、爆弾を投げつけようが、その行為は本人の意志の外側に存在するも の。ゆえに本人の意志とは無関係な型で行為そのものが実行されたのであれば、当然本人の決断や責任はまったくないというものである。」というような恐ろし い発言をしているというのだろうか。筆者の知る限り、「世界の禅者」鈴木大拙を作った二つの体験、「見性」と「十二年間の外国生活」を経てからの大拙に は、全くそういう発言は見られない。

同様な鈴木大拙への中傷的言及は、同著の中に沢山見られるのであるが、それは、そのような発言が、禅者乃至仏教者の戦争責任追 求に関して、読者への説得力となると考えてのことだろうか。それが本当はとんでもない間違いを犯していることにヴィクトリアは気付いていないようである。 次に挙げるのは、彼がよく使う一種のトリッキーな修辞法である。

第二次世界大戦中天皇陛下への忠義を尽して軍臣と崇められた杉本五郎中佐への滔滔たる賛辞を書いた山崎益州という禅師について言及した後、ヴィクトリアは杉本五郎についての叙述をこのように終わる。

「山崎益州や鈴木大拙といった禅の指導者たちが主張した<剣禅一如>は、幼い子までを戦場に送り出し、特攻隊に入隊させ、あの有名な<神風>となり、片道飛行の末に突撃し、まさに若者の命は<鴻毛より軽し>文字どおり若い命を散らせてしまったのである。」(54)

ここでも鈴木大拙という名は、全くのつけたりで、鈴木大拙自身は、当時の錚々たる禅僧たちの天皇陛下の神格化、国家神道への信奉、そして軍事政権への協力、そういうことどもを苦々しく感じ、ゆゆしいことと思っていた。

ヴィクトリアはこうもいう、

「禅宗において伝統的に<活人剣>は<殺人剣>に対し肯定されるものの、その<活人剣>を楯に日本のアジア侵略を時の禅者たちが肯定した。それで<活人剣>は、実際に存在しうるものなのか?鈴木大拙をはじめとする数多くの指導者達が悪用したといえはしないだろうか。」(55)

この引用文では、鈴木大拙は哀れなことに当時のアジア侵略戦争を支持した禅者たちの筆頭に数えられている。これはとんでもない ことで、終戦直後に旬日を経ずして書いた「知性不足の日本人」という一文で、皇道禅の信奉者たちが「聖戦」と称していたこの戦争をいちはやく「侵略戦争」 と断じたことは既に上に論述したところである。公にこれを「侵略戦争」と論難したのは、日本の中で鈴木大拙が最初ではなかったろうか。この辺の歴史には詳 しくないので断定は出来ないが、あれほど早く「聖戦」批判を一文に草した人物は、たとえあっても僅少であろう。ヴィクトリアは鈴木大拙が太平洋戦争のこと を「馬鹿なことをするもんだ」と評した言を取り上げて、物量的に勝っているアメリカに勝ち目のない戦争を仕掛けることのが馬鹿げているといっているので、 単なる常識的な反対を出ないと論じているが、一体そんなことだったろうか。鈴木大拙は、佛教者の節操のない戦争協力を心底から憂慮していたのである。

もうひとつ「剣禅一如」という語句に関して、ヴィクトリアの一文を引用させて頂きたい。

「だが、誰よりも深いまなざしでこの点を追求しつづけた市川白弦をはじめとする幾人かの専門家たちは、<禅と剣>との統一、つ まり<剣禅一如>たるものが、禅仏教における歴史と教理の裏側に深くひそんでいたことを明らかにした。だが、残念ながら本書では、ページ数の関係でこの長 い歴史の一部分に触れたに過ぎないことを断っておきたい。」(56)

この発言自体は妥当なものであるが、剣禅一如とか活人剣を語った鈴木大拙の思想が、禅宗の人々の戦争協力を導いたかの如くに 語っている部分が他にあるので、ほんの少しだけこの点を取り上げてみたい。ヴィクトリアの言うように、剣禅一如の思想が禅の歴史の中にあったことは、歴然 たる事実である。日本の禅は、武士階級の間に広まり発展した。剣を持って命がけで戦わねばならない武士たちは、その死の恐怖を乗り超えるために参禅して、 悟りの境地に達するものも出てきた。恐怖、逡巡、幻影、過信、あらゆる煩悩を乗り越えて、純粋な行為そのものに成りきれる大安心の境地の獲得にまで達した 人が、それを剣禅一如と表現したものであろう。禅は武士たちにとって、武道ばかりでなく、思想的にも大きな拠り処となった。そして、武士階級の庇護の下に 禅宗は発展した。しかし、剣は人を切るものである。自分自身にいくら高い境地を得ても、殺人剣は、自利利他を目指す佛教の根本思想と対立する。そこに、活 人剣なる最高の境地にまで達した人が出てきたというのである。ヴィクトリアは、いったいそんなものがあるのかどうかと問うているが、私は経験したことはな いので剣道としての活人剣については何ともいえない。しかしながら、剣道よりも難しいこの自損損他の人生の只中に、自利利他の道が開けてくることを経験し た人は、そんな境地はありえないとは言わないであろう。そういう思想が醸成されたこと自体が、素晴しい歴史的事実だと思う。

ところが第二次大戦中の剣禅一如の思想問題となると、大きく分けて二つの問題ある。ひとつの問題は、禅の歴史の中で醸成された 剣禅一如の思想と第二次大戦中に起こった禅僧の戦争協力の混同である。ヴィクトリアの指摘するように、禅宗の人々の中から、あらぬことかその指導者たちの 中から、この剣禅一如ないし活人剣という思想を利用して、大政翼賛会的立場から戦争協力をする人達が数多く出てきた。これは簡単に言えば、禅が武士階級の 中に培った剣禅一如という思想の濫用悪用であった。確かに鈴木大拙は、活人剣の思想の素晴しさを説き賞賛したが、第二次大戦の協力者となったことはないの である。この点に関して、市川白弦には大きな誤解があった。市川は、「世界の禅者」鈴木大拙の人生における『新宗教論』の位置づけをはっきりしないまま に、二十五から二十六歳にかけて書いたと思われる愛国的思想を大拙が「見性」と「アメリカ滞在経験」の後も引きずっていると考えて、鈴木大拙の説いた活人 剣の思想が国粋的軍国主義の後ろ盾になったという論陣を張ったのである。ヴィクトリアは、無批判にこの意見に飛びついたようである。活人剣の思想そのもの と禅宗人の戦争協力とは分けて考えねばならない。しかし、前者を後者が乱用したという悲しい事実は、武士階級の中で発展した禅門の業であろうか。

第二の問題は、だからといって、戦時中の仏教者の戦争協力を超然たる立場から大きな悲しみの眼で見ていた大拙を、そういう一群 の人々の中にいっぱひとからげに数え入れるのは、それこそ非論理的な誤謬であるといわざるを得ない。市川白弦がそういう勇み足を犯したのは、どうしてだっ たのか。『新宗教論』の問題点が見えていなかったことが、主たる原因だったのか。それとも、社会主義思想家しか戦争反対が出来ないという思い込みでもあっ たのか。ともかくも、この一点を除けば本当に敬愛すべき思想家である市川白弦が、どうして師自身も尊敬していた鈴木大拙に反発的行動をとるようになったの か、洵に残念でならない。戦時下に官憲の圧力を恐れて協力的な論文を物したことから、終戦後直ちに戦争批判論を書けず、およそ十五年にもわたる沈黙を守ら ざるを得なかったという極めて個人的な良心の問題が、市川白弦の遅まきな大拙批判に影響を与えているとは考えたくないところである。それはともあれ、厳た る事実に反して、鈴木大拙を戦争協力者に算入するのは、この類稀なる禅界の至宝を不必要に疵付けることになる。

最後に『日本的霊 性』の問題を取り上げてみよう。これは、戦時中から戦後にかけて著された日本的霊性的自覚三部作のひとつである。『日本的霊性』はそのうちの第一作で、昭 和十九年十二月に大東出版社から発行になっている。第二冊目は昭和二十一年九月に同じく大東出版社より刊行の『霊性的日本の建設』で、既述のごとくその内 容は二部に分かれていて第二部の「日本的霊性的自覚」は、終戦直前の昭和二十年六月に大谷教学研究所で予定されていた講演原稿、第一部の「霊性的日本の建 設」は内容からして終戦直後に書かれたものである。第三作目の『日本の霊性化』は昭和二十二年十一月に法蔵館の出版で、もともと昭和二十一年六月の大谷大 学での講演である。

日本的霊性の自覚という視点がどのようにして形成されていったのか、その背景には何があったのか、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発した昭和十六年から昭和十七年にかけての書簡から三通を紹介したい。まず、親友の山本良吉宛昭和十六年(1941)二月十三日の手紙。

「葉 書拝見、今何か書かうと思つて居たところです、御申越の如きものおもしろからん、どうすべく、どうなるかと云ふこと、余り忌諱に触れないところでしかるべ きか、これは別にして実際考えて見ると、日本の前途は実に寒心すべきものがある、政治家のないのが一番困る、思想上の見透しのつかぬ、わいわい連中の跳梁 は見てをれぬ、/ 何れ又 / 二月十三日 / 貞拝 / 山本君」(57)

『鈴木大拙未公開書簡』の編集者によれば、ここで「御申越の如きもの」というのは、山本良吉と西田幾多郎と鈴木大拙の鼎談をコロンビア会社でレコード録音する話で、上田久のエッセイ「大拙と山本良吉、西田幾多郎」(『鈴木大拙全集』月報30)によれば、「このレ コードは全部で十二分足らずで終わるものだが、大拙の盤珪禅師の不生禅の話から始まって<誠>を説き、<格物致知>の話が出、西田は哲学から自然科学、物 理まで論じているが、西田が軍部のファッショ化を論難しているなど不穏と見られる恐れがあるからとの山本の意見で、外部へは出されなかった。」(58)という。これで分かるように、真珠湾攻撃の十ヶ月前の時点で鈴木大拙や西田幾多郎などは、「日本の前途実に寒心すべきものがあ る」と軍部のファッシズム化を憂えている。同年十二月八日の真珠湾攻撃先立つこと四ケ月、同年八月八日付けの岩倉政治宛の書簡には、大拙の心配はもっと明 瞭に表現されている。

「貴書拝見、刊行不許可、遺憾に候、併し出来て居れば、何年かの後に、公刊可能なるべし、御辛抱のことと存知候 / わしの考では、日本は此戦役で破滅に瀕する危機を味ふにきまつて居る、現に味うて居ると云つてよい、こんな矛盾をいつまでも 続けていけるものでない、日本の支配者の心中に一大矛盾がある、これが解消せぬと国運の進歩はない、東亜共栄圏も出来上らぬうちに崩壊するにきまつて居 る、是非もないが、自分等は集団生活の業報に服しなくてはならぬ、わしの忌憚なき意見はまた面晤の日を期すべし、宗教的信念なきものに、国事を托するの危 険は歴史の証明するところ、日本は現にこれにぶつかつて居るではないか、/ 暑くなつた、五穀豊穣なれと祈つて居る、/ 何れへもよろしく、/ 御大事に、頓首 / 八月八日 鈴木大拙 / 岩倉君侍史

試練と基督教徒は云ふ、忍従は封建的なり、無功用のはたらきでは余りに超越的か、老人的か、若きものはなんと云ふか」(59)

かつて大谷大学で教 えた学生、社会主義思想家の岩倉政治に対する切々たる思いやりの感じられる書簡である。文中「刊行不許可」というのは、岩倉政治の長編『新しき道義』の続 編の「中央公論」への発表が当局の検閲により不許可になったことを指す。この書簡はいうまでもなくアメリカとの開戦前であるが、この時点で既に「東亜共栄 圏も出来上らぬうちに崩壊するにきまつて居る」とアジア諸国への侵略戦争を非難している。ヴィクトリアが、先に引用した『禅と戦争』中の一文で「ここでさ らに注目すべきことは、大拙は戦争そのものをばかげたことといったのではなく、それはあくまで太平洋戦争に限定し、<おそらくやまず正当化できない>もの とした。彼の書のどこにも日本の台湾、朝鮮、中国への植民地政策に対する悔いや謝罪は見当たらない。なぜなら彼は、アジアでの軍事活動に限っては支援者の 一人だったのである。」と断じていたのはどういう根拠に立ってことだったのか。世界に向かって鈴木大拙を非難するというのなら、この偉大な佛教哲学者の事 をもう少しよく知ってからのことにしてほしいと願うのは、私一人ではあるまい。

次に紹介するのは、昭和十七年(1942)二月二十八日西田幾多郎宛の手紙(60)の中の和歌数首である。

○ みつるぎの光すざまし さはあれどくもらぬ玉の潤ひを思ふ

○ 権力と意志と血で生きる悪魔! 汝の責任 問ふものは誰ぞ(誰も   なきこそ悲しけれ)

○ 絶対の威力に生きて責任を持たぬものあり 名を国家と云ふ

○ 国家てふ名によりて魔のいとなみをいとなむ汝 われ汝を悪む

○ 君達よ そんなに踊るな昭南島 破くわいは易し創造は長し

ここに紹介した最後の歌に「昭南島」というのは、シンガポールの日本名、シンガポール占領は二月十五日のことであった。シンガポールにおける日本軍の華人大量虐殺の事実まで知らされていたかどうかは分からないが、とにかく前年の真珠湾攻撃以来、恐ろしい勢いで間違った方向を歩む日本の国を、「権力と意志と血で生きる悪魔」、「絶対の威力に生きて責任を持たぬもの」、「国家てふ名によりて魔のいとなみをいとなむ汝」と、激越な言葉でもって非難して、「われ汝を悪む」とまでいう苦悩の窮み、親友宛の手紙だけに本当に赤裸々な真情の吐露である。

岩倉政治への手紙に言われているように、大拙は「是非もないが、自分等は集団生活の業報に服しなくてはならぬ」という覚悟をもって、極端なファッシズムの軍事政権が支配する戦 時下の苦悩の生活を生きていた。しかしながら、いわゆる国家神道的思想をもって軍事政権の「聖戦」に協力したことがないことはいわずもがな、超然と拱手し てこれを眺めていたのでもない。では鈴木大拙は、何をしていたのか。確かに、激烈な言動の行使によって投獄・拷問・悶死の道を選ぶということはしなかっ た。しかし、この苦悩の時代を生きながら、誤った日本を再建する思想の形成に日々専念していたことは間違いない。それが日本的霊性の自覚という思想であっ た。彼は、この思想を戦時下の昭和十九年十二月に『日本的霊性』として出版、同じく昭和二十年六月には「日本的霊性的自覚」を大谷教学研究所に送って、あ からさまな神道批判を繰り返し、その批判の度合いは周到な用心のもとにも次第に激化した。六十年安保時代を京都大学で学んだ著者は、その当時『日本的霊 性』の神道批判を読んで感動し、その出版年月を確認して驚愕した思い出がある。この一連の出版物が許可されたこと、鈴木大拙が投獄されなかったことが不思 議であった。官憲の検閲には何らかのマニュアルがあって、それを免れるものだったのかもしれない。もし私が当時の官憲の立場だったら、鈴木大拙の思想の 「危険性」を見逃しはしなかっただろう。

兎に角、当時の軍事政権が思想的根拠とした「思想神道」を痛烈に批判しながら、それに替わるものとして、世界に通じる思想とし て、日本的霊性的自覚を訴えたのである。それは、「集団生活の業報に服しなくてはならぬ」悲しみに打ちひしがれながらも、その全存在をかけて血の滲む思い で、営々と取り組んだ思想的いとなみであった。ブライアン・ヴィクトリアには、是非この『日本的霊性』の思想を消化してほしいと思う。

上記西田幾多郎宛に送られた和歌に見られる国家権力への憤怒の情は、昭和二十一年に出版された『霊性的日本の建設』の巻頭に置かれた一文「戦争礼讃 Laus belli(魔王の宣言)」(61) を思い出させる。「戦争礼讃(魔王の宣言)」という題名は、いうまでもなく反語的修辞法を用いたもので、魔王を第一人称とした語り口で、絶大な権力を持って理不尽な戦争に人々を駆り立てた国家にその恐ろしい魔性を語らせるのである。「国 家てふ名によりて魔のいとなみをいとなむ汝 われ汝を悪む」という大拙の戦争否認の心情が平和時を迎えて結晶した、彼としても異例のスタイルの玉章であ る。この一文の真意は、しかしながら、あのような戦争に駆り立てたものは何であったかを追求しているのであって、以前にはなかったけれども戦後になって突 然出てきたというような表層的なものではない。親友西田幾多郎へ送られた数種の和歌に見られるように、戦争当事者に対する悲憤の情が、戦時中既に大拙の中 にあったことは疑いない。そのような時代に生きなければならないことを自らの業と受け止めて、決して同じ過ちを繰り返してはならないという切情から、「日 本的霊性的自覚」の思想形成に取り組んだのである。「戦争礼讃(魔王の宣言)」という随筆には、現時点から見て注目すべき二点がある。一つは、巻頭に置か れた一節、もう一つは、結論に近い一節である。

「自分は世に隠れもない魔王である。折さへあれば人間世界を混乱の極に導いて、人類を滅亡せんとするのが自分の使命だ。今度も どうやら世界は自分の手中に収められたやうである。思ふ存分に働いてやろう。人間はいまも尚自分をよく了解しないやうな風に振舞つて居る。が、それは人間 が自分自身の性格を十分に了解しないところから来て居る。人間がいま少し深く考へてくれると、自分と人間とは元来一つのものだと云ふことがわかるのであ る。それをわからせる好機会がまた来た。自分は自分の使命につき少しく語つてみたい。」(62)

この巻頭の一文で注目すべきは、第一人称の悪魔に「自分と人間とは元来一つのものだ」と語らせていることである。これに類する言葉は、「生とは力だ、さうしてこの力が魔王の原理なのだ。」(63)とか、「生の力は性の力で、性の力は魔の力だ、それで生まれる人間は直ちに<魔性>ものだ。」(64)等々がある。戦争に余念のない国家権力を悪魔と呼び、「われ汝を悪む」といまでいうが、悪魔を向こう岸に見ているのではなく て、憎むべき悪魔は実は自分自身の中におる、それを訴えているのである。これは佛教の基本中の基本であろう。降魔成道は、釈尊が内なる悪魔を自覚し退治し て成道されたのである。さまざまな形の現実の戦闘を解決するには、私たちの心の根本のところに、この自覚がなければならない。内なる悪魔の退治されるとこ ろにこそ、霊性的自覚の「内なる平和」、最も深い次元での生の喜びがある。

巻末に向けての文章はこうである。ここでも、第一人称は魔王である。

「併し此は大きな声では云はれないが、自分にも悩みのないことはないのだ。原子爆弾で焼き尽くした焦土の中から青々と芽を出す 草があり木があることだ。大地の懐から太陽の光を仰いで出て来る不思議な力、この力はわしの力よりも強いのだ。これは魔性のものでない。力以上の力だ。不 思議にわしの力を無力にしてしまふのだ。人間の奴はこれを霊性的だとか云つて居るが、兎に角、怪しからぬ働きをする。わしと同じく人間の<無意識>に生き て居るやうだが、わしの力ではその正体をつきとめられぬ。時にはその存在を無視しても見るが、どうもわしの思ふやうにならぬ場合がある。それが予期しない 方面――或は予期不可能の方面――から、いつのまにか、頭を擡げて居るので困る。焼野ヶ原から芽生える青草のやうな奴、霊性とかなんとか云つて居るが、こ いつを一つ何とかしてやりたいが、これだけは、ままならないのだ。それで余り大きな声では云はれぬのだ。人間の耳に入るととんでもないことになる。が、此 霊性的自覚から芽生える大悲と云ふわしの見えざる相手、わしを遂には取りひしぐかも知れない相手――大敵ではあるが、自分としては出来るだけの魔神力でこ れに抵抗して見せるぞ。相手もわしを負かすには容易ならぬ努力を要するのだ。わしは名にし負ふ魔王である。」(65)

これを見れば、戦時中から戦後にかけて日本的霊性の要を説いた鈴木大拙の視点がどこにあったかは、極めて明了である。自分自身 の中にある魔を自覚し超え出たところから、この大地に生きるすべての個己に対して、その一人一人の上にはたらく如来の大悲に目覚めよという呼びかけであ る。戦時中いわゆる国家神道と結んで魔王のように荒れ狂った国家権力の猛威、それは単に過去だけの問題ではなしに、現在のこれからの問題でもあり、それは 単なる外の問題ではなしに内の問題でもあるのだが、同じ過ちを繰り返さないために重要なことは、一人一人が目覚めることである。鈴木大拙が「日本的霊性的 自覚」を唱導したのは、悪魔の如く跳梁したファッシズムの脅威、神道思想を悪用した国家権力、軍国政府と結んだ国家神道、そういう退治すべきものを眼前に 目撃しながらの営々たる思想的努力であったといわねばならないだろう。大拙が魔王をして「大地の懐から太陽の光を仰いで出て来る不思議な力、この力はわし の力よりも強いのだ。これは魔性のものでない。力以上の力だ。不思議にわしの力を無力にしてしまふのだ。」(66)と語らしめている霊性的自覚のはたらき、そういう思想的営みに鋭意没頭していた大拙を誰が戦争協力者というのだろう。

日本的霊性的自覚というのは、鎌倉時代の法然聖人、親鸞聖人に範を見る、この大地に生きる超個の個に実現する霊性的自覚の顕現である。「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」(『歎異抄』後序) 阿弥陀仏の大悲は、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」という、この一人の自覚であ る。その一人の自覚の中から流れ出す限りない感謝の念佛の生活、焦土と化した大地の中からでも青々と芽を出す日本的霊性、ありとあらゆるものの中に働く普 遍的霊性の顕現をその地において自覚することの大切さ等々、その日本的霊性的自覚の思想的意味の重要性に関しては、言いたいことは限りなく山ほどある。し かし、これは後日を期すことにしよう。

この文脈で一言断っておかねばならないのは、ヴィクトリアの『禅と戦争』における鈴木大拙批判への反批判の先駆としては、末木文美士の「大拙の戦争批判と霊性論」(67)という短いながら優れた論考があって、鈴木大拙の「日本的霊性的自覚」という思想の形成過程を、彼の戦争批判乃至神道批判と深 く関連するものとして論じている点には、大いに見るべきところがあるといわねばならないということである。それにもかかわらず、この論文の中で末木が「鈴 木大拙は戦争当初は日本の戦争を無批判に肯定していたと思われるが」と不用心とも思える発言をしているのはどうしてか。この論文を検証してみると、それ は、おそらくは、昭和二十二年出版の『日本の霊性化』中にある「さふいうことに対して、そんなら吾等には何等罪がなかつたかと云ふとさうではない、吾等に もまた大いに罪があり、責任があると思います。・・・かの満州事変が始まつてからも、吾等は皆それを日本帝国の発展だとして謳歌したものであります。吾等 のうちでそれに反対したものもなかつただらうと思ひます、あつても極めて少数であつたと思ひます。・・・私などもさう云ふことに対しては実際を申しますと 余り関心を持つていなかつた。」(68)という一節や、その前後の文章が、末木の見解の論拠になっているものと思われる。しかしながら、この文章の流れは、日本国民の 一人として、私たちにも罪があったとして、当時の一般的なものの考え方や感じ方を率直に反省している話し振りであって、これによって大拙が戦争を肯定して いたと断じたり、これを戦争肯定の罪の懺悔だと見たりするのが正しくないことは、拙論のこれまでの論究で明々白々なことであり、わざわざ改めて取り上げる 必要もないであろう。世界の禅者鈴木大拙には、その全存在をかけて一貫した戦争否認の態度があったといわねばならない。大拙は、戦争の始まった当初から、 軍事政権のファシズム化を切歯扼腕の思いで見ており、そういう国家権力と結びついた「思想神道」を超える道として、圧倒的な精力を注ぎながら日本的霊性的 自覚の唱導に余念がなかったのである。

この拙文が終盤に向かう中で、この文脈にぴったりな、高名な哲学者梅原猛の最近の一文を引用させてもらいたいと思う。近来日本 から送られてきた印刷物の中で、以前は忌憚なく大拙批判を展開した梅原猛の鈴木大拙再評価の論評は嬉しいニュースであった。私の言いたいと思っていること を美しく表現してくれている珠玉の文章である。

「大拙は晩年、<日本的霊性>ということをしきりにいう。大拙が霊性という言葉を用いるのは、当時、国家主義的思想家によって使われた<日本精神>という言葉に対する 強い反発の故であろう。彼は、日本的霊性は鎌倉時代になって浄土佛教と禪仏教として目覚めたといい、法然や親鸞や道元などの和語による法語に日本的霊性の 極みを見るのである。それゆえ大拙の立場は念佛禅などといわれるが、大拙自身が、禅でもなく浄土でもない、あるいは禅でも浄土でもある一つの大悟、大信に 達していたのは間違いなかろう。

大拙は終戦直後の大谷大学での講義において、あえて名を挙げて和辻哲郎や下程勇吉のような当時の日本を代表する倫理学者や教育 学者をその国家神道への同調故に厳しく批判する。神道には霊性のかけらもなく、日本の思想が神道の影響を一掃しない限りは霊性の目覚めはありえないと断言 する。

この大拙の神道批判はまことにもっともであるが、彼がここで批判しているのは国家神道であり、国家神道こそ、佛教とともに伝統 的な神道をも根本的に否定したものである。今もアイヌ社会に残る縄文時代からの日本人の宗教である神道には、大拙のいう霊性がまったくなかったとはいいき れない。しかしこの大拙の国家神道に対する厳しい批判を受け継がずには仏教の復興は不可能であると思う。」(69)

鈴木大拙の批判したのは所謂国家神道であって、伝統的な素朴な神道ではないという点を明言しなければならないという思いは、こ の小文を綴りながら何度も繰り返し出て来た想念であったが、この哲学者の一文を引用したついでに、私自身も彼の意見に大いに賛成であることを改めて再確認 しておきたい。

おわりに

ブライアン・ヴィクトリア師が力説して来られたように、「国家神道」的思想に依拠する日本軍事政権の「聖戦」に協力した日本の 思想家、仏教者を批判することは、その過ちを繰り返さないためにも、非常に大事なことである。しかしながら、そういう戦争協力者批判の流れの中から、明ら かにそうでなかった人、霊性的自覚をもった超個己を、掬い出して弁護する仕事も緊急の大事だと思って、この一文を草した次弟である。もし、現今繁盛の仏教 者戦争協力批判が、類稀な「例外者」の一人であった大拙先生を、戦争協力者の一人として、時にはこともあろうかその筆頭に、数えいれるような大きな過誤 を、これ以上黙って見過ごすのであれば、それは却ってあたかも周囲の反発を恐れて時流に加担した戦争協力者の怯弱に酷似するではないかとも思った。謹んで 読者諸賢の暖かいご理解を乞う。

もし大拙先生が居られたら、しかし、何と仰るだろう。「そんなことで苦労することはない、何れ解かるときが来るだろう」だろうか、書き終わってそんな気もするロンドンの朝である。

出会う幸せに恵まれた先師、今師の洪恩を思いつつ。

 

二〇〇七年二月六日 ロンドン三輪精舎にて

 

付録資料

日頃鈴木大拙の資料に接する機会の少ない人々のためには、「見性」と「12年間の外国生活」を経験後の鈴木大拙の一貫した戦争否認の態度を傍証する資料の提出が大事だと考え、ここに若干の関連資料を煩瑣にならない程度に「付録資料」として提出する。

 

A 1897年渡米以後1909年帰国以前

 

1) 1897年6月13日貝葉書院宛通信より抄出。

我国にては宗教の事を説くもの次弟に多くなり、種々の企をなして宗教心を満足させんと致候うち、「新神道」とか申して国家中心 主義を唱へ候もの有之候由承及候、宗教の漸く国民一般に感ぜらるるに至りたるは、結構なれども「新神道」の説の如きは宗教として如何かと存ぜられ候、抑も 宗教の哲学、倫理と異なりて別に一旗幟を建て候所以は深き仔細あることと存候、然るに今此深き仔細を余所に致候て、何かと騒ぎ立ちても無益のわざと存候、 畢竟ずるに彼等は未だ人心の奥妙を悟り得ぬ人々かと察せられ候。(70)

2) 1898年6月11日釈宗演宛書簡より抄出。

近頃友人に依頼して「日本主義国教論」と云ふ書を送りて貰ひ、此処彼処読みて見たるに、予想と違ひ、頗る乱暴な意見のみ多く一 驚を喫したり、純粋な日本主義を挙揚した部分、譬へば美術の画題に古事記や日本書紀の神話を用ゐよと云ふ処などは頗る面白く覚えたれど、その他の功利主 義、幸福主義を牽強附会し、之に天皇と国家との名を蒙らせ、所謂る鬼の面を着けて小児を瞞ぜんとする部分は、単に無茶苦茶と云ふより外無之。殊に宗教の真義をも知らずして経典の句を覚束なくも一つ二つ引用して見た処、いかにも浅ましきことに覚えはべる。老大師には既に御一読遊ばされたるにか。(71)

3) 1898年6月14日山本良吉宛書簡より抄出。

今朝の当地の新聞によれば国会は地租増税に反対して解散せられたる由、

日本政界の乱脈知る べし。日本今日の勢にては尚政党内閣を造る能はざるにや。予は皇室が依然として旧時の超絶、神聖主義を夢み、国民も亦勅語を此上もなく有難きものに思ひな すを以て進歩に益なしと信ずるなり。之がために政府が自家に不利なることあれば直ちに此に隠れて人民の口を箝制せんと勉め、人民も亦此がために自由思想を 挙揚するの途を塞がれ、勅語を楯にし、皇室を担ぐものの前には、一も二もなく拝服せねばならぬなど、甚だ不都合ならずや。<(欄外)此の如きことはゆめゆめ公にすべからず、吾は暫く期を待たざるべからず。> 近時の日本主義など 功利主義に天皇の衣装を着けしめ、之を担ぎ廻して、自家の説を推し通さんとす、昔の南都の坊主共が神輿を利養したるさへ思ひ出されて、いまいましき限りな り。木村の「国教論」など乱暴を極む、たとひ日本主義に多少の取るべきふしあるとするも、功利説の牽強附会せられたるを見ては、誰も耳傾ける気にはなら ず。(72)

4) 1903年(月日不明)山本良吉宛書簡より抄出。

今回の哲学館事件の如き何ぞ児戯に似たるの甚だしきや、当国の予の今の者より見れば文部省の仕打ち狂人の所作としか見られず、忠とは何ぞや、国体とは何ぞや、赤子のがらがらに勝れる直(値?)打あるにか、而して 之を正宗の刀のやうに降り舞わす政府の役人、障らぬ神に祟りなしと、程よく避けんとする国民、岸を隔ててみれば一場の好笑柄、併し君は尚這裡の人、予の意 見を余りなりと思し召さん、とに角、人民自主の気風なく、政府を君主なるものの代表となし、而して君主なるものを神人のやうに人間以上となし、其命に是れ 従ふを忠とか何とか云はんとするこそ片腹痛けれ、今の日本の天子は幸いに賢明なり、国民の政治に干渉せず、もし皇太子位に即くとき、今の独逸の帝のやうに 切りまわらんとし、而して人民は忠君と云ふ名の下に箝制せらるるとせよ、その結果は予想し難からず。(73)

5) 1904年10月1日山本良吉宛書簡より抄出。

戦争は長く続くにや、日々の新聞旅順における悲惨の景を伝ふ、殆ど読むに堪へざるものあり、双方とも決死して軍に臨むため、互 いに殺さずば止まぬと見ゆ、予は日本有為の軍人の多く死するを悲しみ、露国無辜の農民の苦しむを憐れむ、何とかして結着をつけたきものならずや、憾らくは 敵国政府専制の習として、疲弊困憊して復起つ能はざるまで戦はんとするならんを。(74)

6)  1904年12月1日山本良吉宛書簡より抄出。

日本の政府が戦争の成行を報ずるにおいても、勝てる所をのみ大仰にいひなして、其失敗を言はず、言ふことあるも、成るだけ之を 小さくせんとす、之国民を愚にせんとする也、軍機にかかる処はとに角、然らざる所は公明正大を主として国民全体を信用して可ならんに、其此に出づる能はざ るは遺憾ならずや、当時当地に数日間滞在せる日本人あり、それと此事を言ふ、彼頑として日本政府の措置をよしとす、此の如き思想尚教育ある人の間にsupportせらるとすれば、日本政事思想の進歩尚遅々たるものありと云ふべきか、貴意いかん、日本の政事は余程煩瑣にして干渉頗るうるさいと見ゆ、予にして卒然帰国せんには其其窮屈に堪へざらんも知れず。(75)

7)  1904年12月21日西田幾多郎宛書簡より抄出。

手紙並びに新聞切抜き受取申す、今次戦後の事は山本よりくれる新聞やら藤岡の手紙などにて知りたり、固より軍人の身の上なれ ば、今日あらん事は兼ねてよりの覚悟なれど、愈々其時となりて見れば、今更の情なくばあらず、抽象的にはそれらの理屈もつくけれど、日々具体の出来事の上 にありては、苦しき、悲しき思をなすが人間の心なり、此心によりて今一入の修練をなすが、尊き死者の贈物と云ふべきか、人生は真面目なりとの考へ、今度の 戦争によりて深く日本国民一般に滲み込むなるべし、旅順の戦争のみならず、遼陽方面のも、中々常の人の想像の如くならず、露兵の頑強、意想の外に在るに似 たり、我が軍の勇悍なるは言ふまでもなしとして、之に敵抗して、連敗に屈せぬ□□相手の剛強も亦褒むべしとすべし、日々の新聞旅順方面を(原文ママ)惨を報ず、読むものをして覚えず寒毛卓豎せしむ、当国民の太平無事を楽しむと相比して、如何に我国民の深く悲しみの淵に沈めるかを思ひ、悵然として独り胸をいたむ、国威とか云ふものの戦あるごとに揚がるは去る(原文ママ)ことなるが、これがため幾多の生命を失ひたるかを思へば生き残れるものの責任の殊に大なるを覚ゆ。(76)

8)1905年2月12日山本良吉宛書簡より抄出。

今度の戦争は日本人の自覚を覚醒し、自家の文明の他に比類なき処あるを知らしむるにおいて大なる力を有す、多くの人の死する上 国民の負担の日に高まるは嘆かわしき事なるが、之によりて日本文明の将来に大なる光明を与えることありとせば、今日の邦人、子孫のために此の大なる重荷を 負ふをいとわざるべし、今度の戦争は、双方のくたびれexhaustionに終わらんも知れず、独逸、英吉利など其機に乗じて自家の利を図らんとするなるべし、我国古今の歴史において今の時ほど外交家 の手腕を要するはなし、文明のために露国と戦ふなどは虚言八百なり、何れも自国の利益のためなり、されば外交家たるもの他のわが虚に乗ずるに先ちて露と結 ぶか、さなくば深く米英と結托して愈々の時の準備を夙になしおかんを要す、流石に露国は大国なり、内政如何に挙がらずとするも戦争は極処まで続くなるべ し。(77)

 

B 帰国以後1945年終戦まで

 

9)1910年『新仏教』掲載の「緑陰漫語」より抄出。

日清日露の兩大戦役の後を受けたるが故なりと曰はば曰ふものの、軍人の跋扈は余り心地よく思はれぬものなり。米国において軍服 がましきものを見るは、宿屋の召使位なものなれど、英国に渉れば、多少の兵隊を見る、而も目に立つほどにあらず。仏国に行き、独逸に旅するに及びて、始め て国を挙げて一大軍隊的組織なるを見る。露国に至りても同様なるべしと信ず。而して其最も甚しく思はるるは、日本に帰りてなるべし。これ一は我国の事情を 知り、また軍人全盛の実際を覚り得べき機会に触るること多きに由るべし。されど其余りよき心地せざるは、何国に在りても然り。身自ら軍人となりて時めくに 至れば、兎に角、今日の身の上より見れば、軍人の優遇は分に過ぎたる如く思はる。其上平気に観じ来たりても軍人の偏重は決して国家の前途のために祝すべか らざるものと予は信ず。一方を重んずれば勢ひ他方を軽んぜざるべからず、即ち軍人に多くの金を費やすときは、教育に之を惜しむと云ふが如き事情なき能は ず。(78)

10)1914年『禅道』第五十一号所載「禅と戦争」より抄出。

或る人問ひて曰ふ、禅者は近時の大戦争に対して何等の感想をか抱く、と。禅者答へて曰ふ、別に何等の感想と云ふものなし、殊に 禅者としての感想と云ふものに至りては猶更なし。禅者とて別に変りたる人物にあらず、目二つ、足二つ、頭一つの動物なること、他の人類と相異のふしなし。 されば、寒さを寒さと感じ、暖かさを暖かさと感じ、月の白きを見ては秋光の愛すべきを思ひ、花の赤きを見ては春色の賞すべきを思ふ。戦に対しても、平和に 対しても、もの思ふ所、他の人類と何等の差等是れあらず。如何に棒喝とか云ひて喧嘩ずきに似たる禅者も、屍の山を築き血の河を流すを見て、是れ大に我が意 を得たり、戦争万歳と叫ぶものあらんや。もし人々、其吾にあるものを全うし、開発し、増進せしむるを以て此世に処する最大要務なりとせば、此の如きは平和 の時代においてのみ最も有効的に実現せらるべし。一旦平時の状態に変調を生じて、互いに其隣人を射殺し切り殺して始めて、其務めを果し得ると云ふ時に至り しは、正に是れ修羅道、魔王大活躍の時節なり。人文の発達、科学の進歩、個人の幸福、家族団欒の楽しみなどと云ふものは、ただ風前に飛びちがふ暮春の落花 に異ならざるべし。戦争は、極楽を一転して地獄となし、菩提を一転して煩悩となすもの。禅者豈戦争に与するものあらんや。されば近時の大悲劇に対する禅者 の感想も亦、教育者の感想の如く、人文を愛するものの感想の如く、進歩を喜ぶものの感想の如く、商工業者の感想の如く、農業者・科学者・政治家の感想の如 くなる外ならざるべし。殊に禅者の感想を問ふものは誤まれり。・・・ただ普通の人として曰はんに、今日の戦争は所謂泰西基督教的文明なるものに対しての大 打撃・大破綻・大失敗として見るべからずや。戦争そのものが既に非宗教的なり、故に一たび破るれば、従来の制裁は一時にとりのけられて蛮野時代の光景をそ のままに現出す。赤裸々の人心は禽獣にも似たらんかと思はれて、浅間しなんど云ふばかりなし。・・・戦争と云へば、いつも思ひつくことあり。想ふに人の一 生は戦争の連続なり。少しにても我が心に油断が出来れば、敵必ず此罅隙につけこみて吾を撃破せざれば止まず。故に用心・修養・鍛錬は日日に刻刻に積みもて 行かざれば、我が道徳・宗教は必ず忽ちにその根底をくつがへさるべし。丁度戦時の警戒に似たらずや、少し外敵に克ち得たりとて油断すれば、その緩みたる処 よりして崩壊の原因は瞬時の猶予なしに進み入り来る。而してその進み入り来る途行は極めて秘密にして、その蹤跡を窺ひ難し。実に其油断そのものが直ちに是 れ強敵の侵入なり。一旦の見処をのみ頼りとして、少しなりとも弛みを生じなば、その見処は手を翻す如く失却せられん。是れ豈にただ禅の修業のみと云はん や。・・・禅者には特に一種の戦争観なるものなし、少なくとも吾一個人にとりてはそんなものなし。もしありとすれば、今云ふ如き内面的戦争の意義に過ぎ ず。今日の如き文明、今日の如き人心、今日の如き国際関係にては、戦争あるも自然の途行ならん、これにつきて何等の感想をか起すべき。只願はくは吾等をし て各自にその心裡は敵と相戦うて克つことを忘れざらしめよ。(79)

11)1930年2月21日山本良吉宛書簡への後書。

河上へ投票、只今落選のよし見ゆ、政党は皆だめ、併し無産がいくらか出ればよかるべし、又余計になるといけぬ。(80)

12)1935年10月16日山本良吉宛書簡。

山川男爵の演説英訳、お送りのものに手をつけるよりも、初めから自分で試みる方が早く、又気分も出ると思ひ、やつて見ました、 お気に入らぬ点は又御教示に預り可申候、僧堂教育を安直に出版すること、印刷屋にきいて見ます、又二三年の後になると、又五百か千位再版したいと思へり、 そのときなれば尚都合よし、誰か東京の警察の人に知合無之か、赤化の傾向あるものが淀橋で拘留せられて居るので(それからは、転々するよしにきく)、何とかしてその居処をつきとめ、又早く出獄するやうにしてやりたいと思ふのである、何かつで(伝)有之候か、佛教と日本主義の関係につき先頃西本願寺でその種の本を出版したり、本郷の森江へでも電わで御問合あれば知れると思ふ、秋冷御自愛あれと祈る。十月十六日 大拙拝 山本老兄侍史 (81)

13)  1940年2月10日山本良吉宛書簡より抄出。

中学校入学の問題、父兄にとりては大事なり、御苦労同情申上候、近頃学校の教育、大いに科学性を欠く、国体も天業も祭政一致も 結構なれど、その内容具現の点につきては、何にもなし、空疎をきわむ、東亜新秩序もその通り、なんらの実行性ももたず、国民を駆り立て一部能治者のイデオ ロギイの犠牲に供せんとす、内乱起らざれば幸なり、出征の人々は言ふに及ばず、銃後の吾等も迷惑千万、現時の日本に一人の政治家なし、慨嘆痛惜の至り也、 是から二十年後の用意をしておかなくてはならぬ、教育の局に当るもの、その任大なりとす、厳寒、炭なく、米なく、燈なし、御自愛是祈、奥さまへよろしく  御大事に 二月十日 貞拝 山本君侍史 (82)

14)1941年8月8日岩倉政治宛書簡。

本論 32-33頁参照。

15)1942年2月8日西田幾多郎宛書簡中の和歌。

本論33-34頁参照。

 

 

 

1)ブライアン・アンドルー・ヴィクトリア著エィミー・ルィーズ・ツジモト訳『禅と戦争』2001年光人社刊、原著は Zen at War by Brian Victoria (New York:Weatherhill,1997)。

2)『回想鈴木大拙』1975年春秋社刊、78頁。原文は1967年刊行のThe Eastern Buddhist (New Series) VOL.II NO.Iに掲載。

3)同書78頁。

4)『新宗教論』は、鈴木大拙の処女作で明治29年(1896年)11月に京都の貝葉書院より刊行、『鈴木大拙全集』岩波書店では第二十三巻に収まる。初版の凡例によれば、「此書は陽春三月の末つかたに脱稿したものなるが、其後種種の事情に妨げられ、漸く今日に至りて刊行するの運びとなりたり。」とあって、明治28年から29年春にかけての著作と見られる。

5)『日本的霊性』は、初版は昭和19年(1944年)12月に大東出版社より発行、初版の「序」によれば昭和17年から18年にかけての念佛や禅の講演を書き改めたものであり、昭和20年10月第二刷の「第二刷に序す」に、「此書は昭和十九年春頃から秋にかけて草せられたものである。」とあるところから見れば、諸々の講演を書き改めて一個の書の形式にしたのが春から秋にかけてということであろう。日本的霊性的自覚という思想がすでに昭和17年ごろから醸成されていたことが知られる。

6)『禅と戦争』11頁。

7)市川白弦著『日本ファシズム下の宗教』1975年エヌエス出版会刊行。

8)『禅と戦争』12頁。

9)石井公成「宗教者の戦争責任―市川白弦その人の検証を通して―」岩波講座宗教第8巻『暴力―破壊と秩序』岩波書店2004年刊行所収論文。

10)    岩波講座宗教第8巻『暴力―破壊と秩序』227頁。

11)    テオドーレ・ツェルバツキイ著市川白弦訳注『佛教哲学概論』第一書房1935年刊行 (原著はThe central concept of Buddhism and the meaning of the word Dharma by Theodore Stcherbatsky, Royal Asiatic Society, London, 1923)、鈴木大拙の序文は『鈴木大拙全集』第三十五巻[増補新版]14-16頁に収まる。

12)    『日本ファシズム下の宗教』35頁。

13)    同書35頁。

14)    同書35頁。

15)    鈴木大拙の見性の時期に関しては、『鈴木大拙禅選集』春秋社刊の別巻、昭和36年発行の『鈴木大拙の人と学問』中の「鈴木大拙・年譜」では、明治28年(1895年)にするなど、いくつかの間違った情報があるのだが、鈴木大拙研究分野では実証的研究の第一人者、桐田清秀編の『鈴木大拙研究基礎資料』財団松ヶ岡文庫叢書第二平成17年によれば、明治29年(1896年)の12月5日に「最初の見性体験」と記述されている。鈴木大拙は、明治30年(1897年)の2月7日にアメリカに出発するのであるが、見性がアメリカ出発直前の臘八の接心中であったことは、晩年常從昵近の秘書岡村美穂子に よっても、大拙の直接談話として確認された。また秋月龍珉『人類の教師・鈴木大拙』の第一部「鈴木大拙先生の生涯」にも「そのうちにアメリカに行く話が決 まった、アメリカに行くというと、もう参禅はできん。そうなってはとりかえしができん、というので、せっぱつまったな。そこで背水の陣をしいて、坐ったわ けだ。・・・舎利殿にも行ったな。開山の穴の所で徹宵禅もやったぞ。・・・ともかく無字を五年ほど工夫して、アメリカに発つ前の年の臘八の接心で、一応見 性したわけだが、・・・」と大拙の談話を伝えている。大拙の見性の時期の確定に関して決定的に重要な文献的資料は、『鈴木大拙全集』[増補新版]第三十四巻三九九―四一〇頁に収められている大拙自身の自伝的談話「若き日の思い出」である。これはもともと1964年にEarly Memoriesとして The Middle Way Vol.39, No.3に掲載されたもので、没後出版されたA Zen Life: D. T. Suzuki Remembered にも巻頭論文として採用されている。その肝要な部分をここに引用する。

「この話の教訓はもっている一切合財をこの努力に傾注する決心をしなければならぬということである。<人事をつくして天命をまつ>だ。絶望の極に達し自殺しようとする時に、さとりが開けることがしばしばある。恐らく、このようにしてさとられた人はすくない(少ないは誤訳、少なくないとすべき―筆者)と想像するが、多くの場合は遅すぎる。取り返しのつかぬところまでいってしまっているのだ。

普通にはいろいろと逃げみちがあり、さまざまの口実ができる。しかし公案を解くには、選択の可能性のない瀬戸際に立たなくてはならぬ。なすべき途はただ一つでなければならぬ。

わしにこの危機、つ まりせっぱつまった瀬戸際が訪れたのは渡米することが最終的にきまった時であった。ポール・ケーラス博士の翻訳する『道徳経』の手伝いに行くのであった。 その冬(一八九六年)の臘八接心は、わしにとって最後の機会であった。その時公案が解けねば永久に出来ぬだろうと痛感した。わしはすべての精神力をその接 心に集中したに違いない。

それまでは、わしは いつも無字を意識してきた。しかし、自分が無を意識している限り、自分と無の間に隔たりがあるということであり、それは真の三昧ではない。しかしその接心 の終わりに近い五日頃、無を意識しなくなっていた。わしは無と同一になり、それ故に無を意識することが意味する分離性がなくなった。これが三昧の境であ る。

しかし、この三昧だけでは十分でない。その状態から目ざめねばならぬ。その目ざめが般若である。三昧から目覚め、そのままをみる―――それがさとりである。あの接心中、三昧から目覚めたときわしは<分かった、これだ>といった。

三昧の境に入ってか ら、どれほどの時間が立ったか知らぬが、鐘の音でよび起された。老師へ参禅に行き、老師は拶処つまり若干の試問をされた。わしは一々透過したが、その内一 つ,ゆきづまるところがあった。老師は何の猶予もなく退去の鈴を鳴らされた。しかし翌朝早く再び参禅に行き、今度は答えることができた。その夜宿所の帰源 院へ帰る途中、山の木々が月に照らされて透きとおって見えた。わしと同様に透きとおっていたことを覚えている。

わしは体験したもの が何であるかを認識することの重要性を強調したい。見性後、わしはまだ自分の体験を十分明らかに自覚しないで、尚夢の中に彷徨するものがあったようだ。わ しが在米中、「ひじ、外にまがらず」という一句が、不図した機会ではっきりと分かった。すべてが明了になった。「ひじ、外にまがらず」とは、客観的には一 種の必然性であるが、この必然そのものが、主体的には自由そのものであることを意識した。自由意志の問題がここで解けた。その後、公案を透過する困難を感 じなかった。勿論、他の公案は第一の体験たる見性を益々明らかにし、益々深めるに必要であるが、最も大切なのは、いうまでもなく最初の体験であり、最初の 飛躍である。」(同書408-410頁)

したがって、『新宗教論』の脱稿が明治29年3月、出版が同年11月であるから、この書の著述は「最初の見性」以前のことである。

16)    鈴木大拙の見性の時期に関しては、『鈴木大拙禅選集』春秋社刊の別巻、昭和36年発行の『鈴木大拙の人と学問』中の「鈴木大拙・年譜」では、明治28年(1895年)にするなど、いくつかの間違った情報があるのだが、鈴木大拙研究分野では実証的研究の第一人者、桐田清秀編の『鈴木大拙研究基礎資料』財団松ヶ岡文庫叢書第二平成17年によれば、明治29年(1896年)の12月5日に「最初の見性体験」と記述されている。鈴木大拙は、明治30年(1897年)の2月7日にアメリカに出発するのであるが、見性がアメリカ出発直前の臘八の接心中であったことは、晩年常從昵近の秘書岡村美穂子に よっても、大拙の直接談話として確認された。また秋月龍珉『人類の教師・鈴木大拙』の第一部「鈴木大拙先生の生涯」にも「そのうちにアメリカに行く話が決 まった、アメリカに行くというと、もう参禅はできん。そうなってはとりかえしができん、というので、せっぱつまったな。そこで背水の陣をしいて、坐ったわ けだ。・・・舎利殿にも行ったな。開山の穴の所で徹宵禅もやったぞ。・・・ともかく無字を五年ほど工夫して、アメリカに発つ前の年の臘八の接心で、一応見 性したわけだが、・・・」と大拙の談話を伝えている。『新宗教論』の脱稿が明治29年3月、出版が同年11月であるから、この書の著述は「最初の見性」以前のことである。

17)    鈴木大拙の『新宗教論』中の国家と宗教の関係に関するやや愛国的な発言は、同書十六章中の第十五章「宗教と国家との関係」に見られるものであり、市川白弦の上記引用はすべてこの章からである。

18)    桐田清秀編『鈴木大拙研究基礎資料』17頁参照。

19)    桐田清秀編『鈴木大拙研究基礎資料』によれば、明治30年(1897年)3月6日にサンフランシスコ到着以来明治41年(1908年)2月29日の英国へ出発までの11年間と明治42年(1909年)3月帰国までの約一年間の英国滞在、合計12年間を英語圏の国々で過した。

20)    『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十二巻所収の論考。もとは『大谷学報』第24巻3号(1943年6月20日発行)に掲載。

21)    『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十二巻430頁。

22)    同書432頁。

23)    同書434-435頁。

24)    同書435頁。

25)    『鈴木大拙全集』第九巻所収。

26)    『鈴木大拙全集』第九巻の古田紹欽編集「後記」所収、同書423-424頁。

27)    『鈴木大拙全集』第八巻106-107頁。

28)    『鈴木大拙全集』第九巻164頁。

29)    同書165-166頁。

30)    同書202-203頁。

31)    同書121頁。

32)    『鈴木大拙全集』第二十三巻137頁。

33)    同書139頁。

34)    『鈴木大拙全集』第九巻290頁。

35)    同書294頁。

36)    『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十三巻7頁。

37)    同書7頁。

38)    同書8頁。

39)    同書8頁。

40)    同書8-9頁。

41)    同書9頁。

42)    同書9―10頁。

43)    同書120頁。

44)    『鈴木大拙全集』第二十一巻86頁。

45)    同書86頁。

46)    『鈴木大拙全集』第八巻273-274頁。

47)    同書239頁。

48)    『禅と戦争』224頁。

49)    同書224-225頁。

50)    『鈴木大拙全集』第二十八巻343頁。

51)    ここの「東亜文化」は、前後の文脈からして、「東西文化」であろう。亜と西は、酷似した文字故に誤植が生じたものと思われる。 「<大東亜>戦争と云ふが、その実は思想的に東亜文化の抗争であると見てよい」と続く逆接の文章だから、これは東西文化と見た方が解りやすいし、これに続 く文章も次の引用文で明らかなように東西文化の異質性と拮抗ということを言っているのであるから、前後の文脈から見て、この「東亜文化」は誤植で、「東西 文化」でなければならない。

52)    同書343頁。

53)    同書343頁。

54)    『禅と戦争』53-54頁。

55)    同書199頁。

56)    同書233頁。

57)    同書14頁。

58)    井上禅定・禅文化研究所編『鈴木大拙未公開書簡』禅文化研究所1989年刊行、415頁。

59)    同書416頁。

60)    『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十七巻25-26頁。

61)    同書36頁。

62)    『鈴木大拙全集』第九巻15-27頁。

63)    同書15頁。

64)    同書18頁。

65)    同書20頁。

66)    同書26―27頁。

67)    同書26頁。

68)    末木文美士「大拙の戦争批判と霊性論」、松ヶ岡文庫編集『鈴木大拙没後四〇年』河出書房新社2006年刊行に掲載の論文。

69)    『鈴木大拙全集』第八巻235頁。

70)    『近代の仏教者たち』朝日新聞社2004年5月16日号26-27頁。

71)    『鈴木大拙未公開書簡』438頁。渡米直後のこの時期既に、ナショナリズムと結託する「新神道」の台頭に危惧を表明していることが注目される。

72)    『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻145-146頁。文中「日本主義国教論」というのは、木村鷹太郎(1870-1913)の『日本主義国教論』。天皇と国家の名を借りた「日本主義」の主張に「頗る乱暴な意見のみ多く」と危険を予感して、釋宗演師に善導の要ある由を訴えている。

73)    『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻151-152頁。この書簡でも再び木村鷹太郎の日本主義の危険を取り上げ、かつ勅語を楯にし皇室を担ぐ当時政権のナショナリズムの横暴を嘆いている。

74)    同書238-239頁。文中に「哲学館事件」と言うのは、明治三十五年十月末に実施さ れた同校の卒業試験に文部省の視学官が介入した事件。「君主なるものを神人のやうに人間以上となし」そうすることによって国家権力を振るう官僚の横暴を嘆 く。この一連の手紙に見えるように、アメリカから祖国日本の現状を見る経験が、やがて国際人鈴木大拙の形成に大きく資したと言えるであろう。

75)    同書254-255頁。これは日露戦争についてであるが、一部の鈴木大拙を戦争協力者 の如くに批判する人々が、大拙が反対したのは太平洋戦争に限られていて、アジアでの日中戦争等に対しては積極的支持者であったというような誤解を防ぐ一助 となればと思ってここに取り上げた。大拙の無益の死に対する悲嘆、殊に「露国無辜の農民の苦しむを憐れむ」の語、注目に値する。

76)    同書256頁。渡米七年後「日本の政事は余程煩瑣にして干渉頗るうるさいと見ゆ、予にして卒然帰国せんには其其窮屈に堪へざらんも知れず」との感慨には、ただ日本にいたのではできていなかったような独特な感覚の醸成が見られる。

77)    同書258頁。現地の新聞の報道と日本からの情報の両方を以て、日露戦争という現代戦争の悲惨を見た経験は、次第に戦争否認の態度を固めるようになったと思われる。多くの命の失われたことに対する悲嘆と残されたものの苦難と責任への言及を見よ。

78)    同書269頁。当時何といって も肩身の狭い思いをしながらのアメリカ生活中に、世界の大国ロシアに対しての堂々たる戦いぶりを聞いて、故郷の親友に綴った手紙であれば、いくらか肯定的 な気分の覗くのは止むを得ないかなと同情もしてみたくなるのであるが、それ以降の文献には見られないような、戦争に対して肯定的な気分の散見する日露戦争 時の書簡であることを断って、この文書を敢えてここに掲載する。言うまでもないことであるが、これはアメリカ留学中のことであり、その後の鈴木大拙には再 び出てくることのなかった類の言辞である。長期のアメリカ留学から帰ってきて、世界に生きる一個人としての自覚は、ゆるぎない視点となった。

79)    『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十巻407-408頁。帰国直後の大拙の日本の印象は、この引用で見られるように、軍人の跋扈と教育の軽視であった。「軍人の跋扈は余り心地よく思われぬものなり」の「心地よく思われぬ」は、英語ではuncomfortableであろう。このような文脈ではかなり強い表現といわねばならない。この時大拙が杞憂した軍人の跋扈は、後の軍隊主導の戦争拡大、世界戦争突入へと繋がっていく。

80)    同書480-482頁。1914年に書かれたこの「禅と戦争」という随筆は、大拙の戦争否認の態度を明瞭に伝えるものであるから、かなりの部分を引用した。その戦争否認の態度は、後半の叙述に見られるように、油断大敵を肝に銘じて常に用心深く煩悩退治の内面的戦争の日常底に支えられるものである。

81)    『鈴木大拙未公開書簡』361頁。文中「河上」は、昭和三年京都大学を追われた河上肇(1879-1946)、「無産」は「無産政党日本労農党」を指す。評論家によっては、鈴木大拙のことを、立憲君主制の信奉者であるとか、帝国主義の 支持者であるとか、色々なレッテルを貼りたがるのであるが、それでは他方では河上肇に投票するから鈴木大拙は共産主義者というひとがあっていいのか。大拙 自身はそのどこにもいなかった。いわゆる主義主張を全く超絶した立場から、その時その場で最善と思われることをおこなった。何もないところに立っているか ら、どこにでも立てた。そういう自在人であった。

82)    同書385頁。「赤化の傾向あり」ということで警察に拘留されている若い友人に対するこのような配慮と行動は、大拙の行動の原点が主義や教学を超えた深い人間愛であったことを思わせる。

83)    同書409ページ。大東亜共栄圏を謳う日中戦争を悲嘆する山本良吉宛昭和十五年二月十日のこの手紙も、それよりもっと強い調子でその戦争の当事者である日本の支配者を非難する岩倉政治宛昭和十六年八月八日の書簡(付録資料14)も、真珠湾攻撃以前、つまり太平洋戦争勃発以前であることはいうまでもない。鈴木大拙が太平洋戦争には否定的だったが、それ以前の日中戦争には肯定的だったという主張は間違っているといわねばならない。