「そのままで」第149回ロンドン会座報告
第149回ロンドン会座は二月二十三日三輪精舎で開催されました 。これは、2020年最初のお会座でありまして、司会のアンドリュー・ウェブ氏が開会の辞で述べられたように「三輪精舎の歴史に新しい章を開く」という意味があったように思います。このお会座はまた、三輪精舎僧伽の多くにとっては初めての出会いとなった竹原仰信師を歓迎する好機ともなりました。このお会座の中心は、佐藤顕明師の「浅原才市の詩におけるそのままの意味」という法話でした。最近私たち精舎同行の何人かは、佛教協会における顕明師の鈴木大拙英文真宗論集を読む勉強会へ参加して来ました。それら一連の論文の幾つかは才市とその詩への言及も含んでいたので、今日の顕明師の法話は最近の三輪精舎の活動にも関係しており、そういう意味で才市とその詩についてもっと学びたいと思っていた私たち数人は、この日のご法話を心待ちにしていました。
顕明師はご法話を才市の背景から話し始められました。顕明師は、才市は妙好人と呼ばれる類の真宗信者で、妙好人というのは純粋な信仰の人々を指す言葉、「信心深さ、超俗性、活き活きした相、善良さ、深遠なこころ」といった特徴がありますと説明されました。妙好人の大部分は無学で、私たちが妙好人について知っている大部分は、彼等自身の著作からではなく、真宗の僧侶が妙好人について書いた書物から得たものでした。真宗の僧侶はほかの求道者を鼓舞するためにそういう妙好人の話を書いて使ったのでした。
しかしながら、才市の場合数千首もの詩を含む日記を付けており、そこには純粋な信仰に達した自らの経験とその結果としての豊かな楽しい生活が叙述されています。ですからそれはと、顕明師は説明されました、才市自身の経験を知らない第三者の証言に依るのではなく、私たちは才市自身の記録を直接に見ることができるのです。
才市は深く蓮如上人に影響されました。特に真宗の勤行で拝読される『御文』に影響されていました。顕明師は、『御文』における解りやすい簡明な言葉の使用は、真宗の教えをより近付きやすいものにし、才市のような教育を受けていない人々でさえも真宗の教えに近づけるようになったと説明されました。顕明師のお話によると、才市は蓮如上人の『御文』の行間を人差し指で辿りながら朝夕拝読していました。顕明師は才市の使っていた『御文』を直接見られたのですが、人差し指が辿ったところは厚い和紙が擦り減って非常に薄くなっていたそうです。
次に顕明師は才市さんの詩の幾つかを紹介しながら、才市が凡そ4百年の時間差にもかかわらず、蓮如上人と非常に深い精神的な出会いを果たしたことを、その詩においてどのように語っているか、具体的に話して下さいました。これに続いて顕明師は、日本語の「そのまま」と「このまま」を才市がどのように使い分けたか、ご法話の中心課題へと入っていきました。「そのまま」はこの場合just as you areと英訳できるのに対し、「このまま」はjust as I am、いずれも阿弥陀佛がお慈悲によって「ありのままの私たち」を抱き取って下さる真実を指しています。
顕明師は、最初期の詩において才市はこのままという言葉を肯定的な意味で使っていたのですが、時が経つにつれて才市のこの言葉に対する態度は大きく変わり、終にはかなり否定的になったと説明されました。顕明師は、才市のこの言葉に対する姿勢の変化は彼の信仰経験の深化の過程で起こった深遠な内省の結果であると説明されました。これを実証するために、もし「このまま」(just as I am)で往生が遂げられると思うのであればそれは「間違っている」という信念を才市が表明している詩の幾つかを紹介されました。才市の姿勢が「このまま」という表現に対して否定的に転ずると、才市は[あなたをありのままに(just as you are)]を意味するもう一つの言葉「そのまま」を頻繁に使いました。顕明師は、その理由は、このままという言葉が「救済の瞬間の阿弥陀佛との一体感を外れて」用いられると、「このまま(just as I am)」というのは「空しい言葉となり、空虚な驕りになる」からだと説明されました。それとは反対に、「そのまま」は、「ありのままにまかせなさい」と信者へ呼びかける阿弥陀佛ご自身のお言葉です。これは簡単に見分けられる区別ではありませんが、私はこの解説が好きです。なぜならそれは今一度私に、私たちが真実信を達成するのは自らの自力によってではなしに、阿弥陀佛ご自身(他力)からであるということを想い起こさせて下さるからです。顕明師が明らかにして下さったように、「そのまま」とは向こう側からのお呼びかけですが、「このまま」はそうではありません。「このまま」は、私たち自身の自己肯定に終ります。顕明師のいわれたように、「そのまま」は、才市が直接に聞いた阿弥陀仏の彼への呼びかけの声なのでしょう。
顕明師は続けて、学校教育は無くても才市がこれら二つの言葉の微妙な違いを明らかの見ることができたのは本当に驚くべきことだと仰いました。顕明師はまた才市が時折第三の言葉「ありままjust as it is」を使ったことも説明されました。最後に顕明師は、これら三つの言葉は真宗の三種の自然を表現していると結論されました。「このまま」は「業力自然」の世界に、「ありのまま」は「無為自然」に対応するのに対し、「そのまま」は真宗の真髄である「願力自然」、すなわち「他力」であると仰いました。
アンドリュー・ウェブ氏は、詩を通して才市の暖かさを感じることができたが、そういう感じが出るように英訳するためには、顕明師がどれほどの精力をつぎ込まれたかと思いましたと総括されました。ウェブ氏は、「このような簡潔な言葉の背景には深い宗教的苦闘があったに違いないし、無学な才市は、「知的な学習ではなしに真実な聴聞の実践によって」純粋な信心を達成したに違いないと仰いました。アンドリュー・ウェブ氏は、私たちはみな自らの真剣な佛法聴聞によってこの道を辿ることができるのですと付け加えられました。
次に私が妙好人とはどんな意味かと顕明師に問いまして、この問いに対して顕明師は、妙好人とは「真実信の人」という意味ですと応えられました。それに付け加えて顕明師は、妙好人に関しては、真宗の僧侶達が人々に妙好人のような真実信の達成を勧めるために沢山の本を書いたのであるが、才市の詩の場合はそのすべてを自分自身で書いているという意味ではまったく直接的であり、私たちはその詩を通して真実な信仰経験に触れることができるのだと説明されました。顕明師は、妙好人は無学に近かったかもしれないが、彼らは精神的な鍛錬を経ていたと話されました。才市自身の場合だと、十九歳の時から真実信に到達するまで四十年もの間佛法を聴聞し続けていたのです。
クリス・ドット氏は、 顕明師に「このまま」と「そのまま」の違いについてもう少し説明欲しいと言われました。顕明師は、鈴木大拙先生も「このまま」という言葉を時折肯定的に使われましたが、もしそれが真実信を得た瞬間という文脈以外で使われると、自分の好きなように解釈して自己中心的になって仕舞うのですと返答されました。
最後の所感は石井建心師からで、 建心師は「このまま」と「そのまま」の違いという主題は、僧侶になるようにというご慈言を頂戴した時の精神的出会いを思い出させてくれたと言われました。その時私が感じたのは真実の無条件的慈悲(大悲)であり、それに対して「有難うございます」いうほかにありませんでしたと、建心師は仰いました。もし「このままで?」というのであれば、ただ言葉を聞いているだけで無条件的慈悲は感得していないのですから、恐らくそこにはまだ何かしらの疑いが残っているでしょうと仰いました。建心師はまた、私たちは直ちにこの点を理解する必要はないのであって、生涯をかけてそれを考え続けるべきであり、私たちの答えは二、三十年後に変わり得るのですから、そこをただ問い続けることが大事ですとも仰いました。
私自身としては、顕明師の法話は、ただ自力に依っているのではいけないという非常に大事なご催促だったと思いました。才市の詩は、真実な信仰経験の美しい描写を提供してくれ、霊感だけでなく感動をもたらしてくれるものでした。最近顕明師とジョン・ホワイト教授の俳句の本を読むことによって、詩というものは佛教経験を見る独自な方法であるということが解ってきましたし、顕明師の才市の詩の翻訳もまた、言葉の背後にある甚深の意味を指し示すものを非常に沢山含んでいます。これからも何度も繰り返しそういう詩の英訳が読めることを期待しています。
クリストファー・ダックスベリー