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第一回ホワイト先生を偲ぶ会 : 実語を耳の底に貽す

十一月六日、三輪精舎にてホワイト先生の一周忌法要が「Remembering John」

として行われました。英国と日本を中心に、多くの方々がリモートにて参加され、ホワイト先生の最初のご講話を拝聴し、ご恩に立ち返らせて頂きました。

三輪精舎理事 スティーブン・モントゴメリー博士

私は、ジョンのことを一九八六年から存じ上げています。彼は出会った当初から本当に優しい人で、私も妻も本当に良くして頂きました。今、聞いた彼の正行寺での最初の講話は、留学生顕彰碑がUCLの「日本の庭」の中に美しく建立されたことを、鮮明に思い出させてくれました。私の妻は観光ガイドの資格を持っておりましたので、日本のお同行をウィンザー城までご案内し、その中に細川佳代子夫人が居られたのをよく覚えています。私は庭について何も知りませんが、この三輪精舎の庭は、どの日本庭園とも違います。三輪精舎の庭そのものが、ジョンの記念です。

三輪精舎理事 永瀬秀明教授

ジョンとは、あるレストランでお互い一人で食事をしている時に出遇いました。その時に「日本人ですか?」と尋ねられ、彼のデザインした三輪精舎の石庭のことを初めて聞きました。彼はUCL教授会の晩餐にインペリアル大学で教鞭を執っていた私を招待してくれ、以来頻繁に食事を共にしました。その中で彼から英国の教育制度などを学びました。そして彼の長けた英語能力からは、素晴らしい表現を学びました。ジョンは丁度一年前に旅立たれましたが、議論を含む多くのことを毎日思い出し、ジョン、あなたが居ないことを寂しく感じています。

戸田健二氏

一九八八年にUCLに初めて招かれた時、「貴方の信念はいかに」と聞かれました。それに、正行寺のお育てと、善知識同行のお護り、雅楽と庭の手水鉢の掃除の事実を申し上げました。その雅楽について、再度質問された時、「相異の中に調和を生む音楽です」と、御和讃のお言葉をもとに応えました。それはUCLの根本精神と同一ですとホワイト先生が仰いましたが、本日のホワイト先生の最初のご講演にも、全く同じものが底流していると思いました。また、ロンドン会座の原点は、ホワイト先生のご提案によるミーティングであったことが思い出されます。

小河正行氏

ホワイト先生のお写真の前で、ウイスキーを飲ませて頂くことが、私の先生へのお焼香です。先生に最初にお遇いしたのは、三十年前でした。そこから英国とのご縁が開かれました。日本では優しかったホワイト先生は、英国では、全く私の言うことを聞いて下さらず、ご自身の意見を通されました。でも、そんな先生に、最後は「有り難う」と言いました。それ以後、三輪精舎の庭の手入れを続けてきました。先生は、剪定後の木々の影を夜に眺められて、庭を愛でておられました。あの庭には、ホワイト先生がおられます。生きている限り、通わせて頂いて、庭を守らせて頂こうと思います。

建心師

ホワイト先生、丁度一年前の今日、お昼までお元気だった先生が、一時間後、僅か十五分の間に、コンピューターの前の椅子に座られたままお浄土にお帰りになられました。人が往生するまさにその瞬間に立ち会ったのは、私にとって初めてのことでした。退院されてから、「俺にはまだしないといけないことがある」と言われながら、翌日から毎日机に向かわれましたね。正確な言葉は覚えていませんが、先生は「これまでの三十年間、智明様、平との出会いを通して自分が受け取った佛教を思うと、既存の佛教書の中に、著者が佛教に対して誤解を抱いたまま出版されているものがある。それを読んだ未来の若人が誤解をしてしまわないよう、注意点を書き残さねばならない」と仰いました。このお言葉からも、先生が人生の最後の瞬間まで、明らかに人のために生きておられたことが分かります。そのお相は、まさしく利他の実践行であり、今も私の心の中に鮮明に残っています。当時は、先生は将来の若人のために用かれているのだと思っていましたが、先生のお言葉を思いながら一年が経ち、先生の言われた未来の人々とは、私自身であったのだと思うようになってきました。それを実感できたのは、この一年間、先生のご講話のウェブ・サイトを作るお手伝いをさせて頂き、全てのご講話を再度読ませて頂く機会を頂戴したからです。正行寺での初めての講話を先ほど読ませて頂きましたが、先生とご院家さま、正行寺お同行との最初の出遇いが、全てのご講話の原点にあることが、愚鈍な私にも自然に感じ取れました。最後のご講話「阿弥陀佛と超越と他者性」で語られた内容は、先生のその出遇いの体験であることがよくわかりました。出遇いから始まった最初のご講話と、その出遇いに帰って行かれた最後のご講話、その間のご講話の数々は、最初の出遇いに基づいて生まれた、先生ご自身の気づきであったのだと感じています。書き残された多くの詩も同様に、先生がその時何を感じ、どんな人であったのかを理解する手がかりを与えてくれるようにも思えますが、それは私の無知から生じる妄想なのかもしれません。なぜなら先生は、自らの無知を自覚されたところから「私の意識を全く超越しているのが他者である」と謙虚に仰り、言葉にならない「他」を言葉で書き留められたのですから。そう考えると、先生が私に願って下さったこと、そして今も願って頂いていることは、ただ私自身が自らの無知を自覚することだけなのだと思います。

先生のご命日、十一月六日は「Remembering John」(「ジョンを偲ぶ会」)と名付けられ、毎年先生のご講話を一つずつ拝読することになりました。「建心、ふざけるな!」と言われそうですが、これは直近の理事会で決まったことですので、残念ながらこの決定を変えることはできません。先生がいつも言われていたように、「理事会が決めたことは絶対」ですから。一年に一つずつ講話を読むとしたら、全てを読み終える二十八年後、まだ生きていれば私は七十七歳になっています。それは、先生が亡くなられたご年齢よりも二十歳も若く、まだ若造です。しかし、もしその時まで私が、自らの無知を照らされるような本来的出遇いを繰り返し求道できていれば、その時は先生と顕明さんに育てられ、常に自らの愚かさに帰っていこうとされるお同朋と共に、先生が書き残そうとされたその続きを書き始めることが出来たらと願っております。

この一年、先生のご恩を思いながら、先生から多くの気づきを頂きました。その一つは、三輪精舎サンガについてです。先生はいつも「正行寺同行との出遇いを続けなければ、三輪精舎サンガは廃れる」と。

そして、石庭についてお話しされる際には、いつも一番最初に「この庭はどの庭のコピーでもありません。コピーは絶対にオリジナルのものより良くはなりません」と仰っていました。これまで私は、正行寺と三輪精舎は地球の裏側にある遠く離れた二つのサンガだと無意識に認識していたと思います。しかし、最近の正行寺と三輪精舎の法動を通して、先生の二つのお言葉が私の中で一つになり「ホワイト先生は、正行寺サンガのコピーを造られたのではなく、新たなサンガを英国に造られたのでもなく、ただ正行寺サンガを英国まで広げて下さったのだ」と思いました。

この気づきは、正行寺から遠く離れている私の寂しさを払拭し、なぜ先生が正行寺との精神的交流を大切になさったか、その全てを説明し、私に理解させてくれました。それに気づかされた時、正行寺サンガは、もはや遠く離れた地球の裏側にあるのではない、という感謝の気持ちで一杯になりました。

今私が賜っているこの修行の場こそが、ご院家さまご夫妻、顕明師ご夫妻、そしてジョン、あなたのご苦労とお慈悲によって広げて頂いた、正行寺サンガそのものでした。

このお礼の手紙の最後に、ブルックウッド墓地のウィリアムソン教授ご夫妻の顕彰碑に刻まれている先生の詩を引用して、先生から頂戴した気づきに対し、心からお礼を申し上げたいと思います。有り難うございました。

聞き入れば

語りくる声

しじまより

私はこれまで、この詩を「ブルックウッドの(物理的な)静けさの中で、耳を澄ませば、留学生やウィリアムソン先生ご夫妻の声が聞こえてくる」と理解していました。以前、顕明さんから、先生が初めてご院家さまにお遇いした日のことを聞かせて頂いたことがあります。ご院家さまが「奥様の最後のお言葉は何でしたか」と仰ったとき、先生はすぐに涙されたと。この詩を数ヵ月前に改めて読み、ご院家さまとの出遇いの中で、先生は絶対的な寂静に入られ、奥様の声なき声を聞かれたのではないか、そしておそらく先生は、最初の講演の最後の詩の中に、ご院家さまとの出遇いを通して感じられたその絶対的な寂静を、「内なる浄土」と表現されたのではないか、そう思った時、この詩は「心の静寂さの中で、耳と心を傾ければ、他者からの声が語りかけてきます」と私に教えて下さっているのだと気づかせてもらいました。

そう考えると、私が心の静寂さの中で本当に聞きいれば、いつも私に語りかけて下さっている先生の声を聞くことができるのだと、今、そう思わせて頂いております。

ジョン、いつも私と三輪精舎を見守って下さって、有り難うございます。

顕明師

ご参集下さいました皆さん、ホワイト先生の一周忌法要に参詣下さいまして、本当に有り難うございました。

ホワイト先生が、我々のために為して頂いたことは、本当に量り知れません。ホワイト先生とご院家さまとの出遇い

は、世界的、歴史的なことで、今後、いよいよそのことが証明されてゆくと思います。

ご院家さま

私は先生のことをお遇いしたごく当初より、「菩薩さま」と思ってきました。

菩薩とは、聖人は龍樹菩薩と天親菩薩だけに捧げられた敬称です。

龍樹さまには「自然即時入必定」と、釈尊のお悟りに直入することが示され、天親菩薩は「世尊我一心」と、釈尊と衆生が不離であると明かされました。

現下の今、世界は七十年前の世界大戦の混乱の時代に呼び戻されるような状況下にあります。

私は一ヵ月前、あの世界大戦以来の禍根から救われたお同行のご法事を勤め、その人がホワイト先生の言葉に依って、はっきり救済されていることを明確に確かめることができました。

その方の名は、高山世子さん。平成二十八年十月十九日に、往生されました。

そして、今から約一ヵ月前の十月九日に七回忌の記念法要を、彼女の夫・暢二氏の願いによって、彼はかなり重い病身をかかえながら、正行寺の本堂で取りおこなわれました。

世子さんは、終戦直後、生みのお母さんは、引き揚げの最中、中国で逝去、まだ嬰児(みどりご)の時、わずか十歳の幼い姉に負われて帰国しました。終戦の時、自分ひとりを中国人に預けようとした父の事も、苦しみの種でした。父親は、帰国後、再婚されたので、ただ一人別れて、祖母の所に預けられることになりました。

世子さんは、六歳になったある日、高齢となられたお祖母さまは、養育が困難となられたからでしょう、お祖母さんに手を引かれ、東京近郊の子どものいない伯父さまの家に行きました。

しかし、いつの間にかお祖母さんの、持っていたカバンがなくなり、祖母様の姿も見えなくなっていました。その時以来、心のどこかで祖母は私を捨てたと、子どもの直感で思い、その思いが彼女が病を得て、闘病するまで、心の片隅に運命として、くすぶり続けていました。病院で夫の暢二氏が持参された『ごおん』誌の七月号を読んでいると、『父母恩重経』の文が目に留まりました。乳児の間、無意識下で与えられた親からの十種の恩徳が書き連ねてあります。

その第八番目に「為造悪業の恩」の一節に目が止まりました。それを拝読し、アッと息が止まりました。

そこには、子のために親は、悪い行いさえすることがある、それもご恩である、という一節です。

それを見た瞬間、幼い孫である私を五年間育て、その孫をひとり、伯父夫婦のところに置いて田舎にもどって、一人暮らさなければならなかった祖母の心に、初めて触れることができました。そして、既に亡くなっている実父や、育ててくれた祖母、周りの人たちとの本当の交流の命が甦った気がしました。

また、お世話になったことを、「全ての人たちにお礼申し上げてほしい」、そのことを残してゆく夫に言い残し、「この感謝の心を伝えて欲しい」と言い残されました。そして、そのことと同時に、ご自分の心境を表す、最も適切な素晴らしい言葉を『ごおん』誌上から得たことを語ってくれた、と暢二氏が伝えてくれました。それが、以下のホワイト先生の詩です。

ことに触れて 執するなかれ

そのままに つぎを楽しめ

そのつぎも そのまたつぎも

いのちある限り そを愛でよ

そして時 来たれば

未知なるものに

涅槃に

空に入れ

顕明師に伺うと、この詩をお作りになったのは、彼女の往生と同年の春五月だったようです。

私もこの詩を拝見したときは、非常に美しい哲理を湛えた言葉であるとの思いを抱いていました。

しかしこの度、初めてあの「涅槃」が非常に温かで、身近なものであることを実感しました。

この詩は、一貫して、佛の世界からでなければ、生まれてこない言葉のつながりです。それが、命の終わりを覚悟した、世子さんには、そのまま余すところなく、吸収できたのですね。あたかも文字と命が一体化した相です。

私は正直、その時には、私自身の全栄養として消化できませんでした。

この詩をうけとめた世子さんの相にふれ、しかも六年も経過したついこの間、ここに佛の命の動向をハッキリみせていただくことができました。そして、ホワイト先生の詩には、佛教の三宝印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)の全容が凝縮されていることも確認できます。

佛の哲理については、六年前にも気づいてはいましたが、この大悲の温かさは、全くこの度の特別な、新しい出来事となりました。まさに先生の命の甦りに驚き立つばかりです。これまで、先生が三十年余に亘って遺してくださった、数え切れない程の詩群と、清浄な言説が、これからも限りなく、如来さまからのお便りとして、私どもを勇気づけて下さることを確信しています。私が「菩薩さま」とお呼びする所以です。先生滅後の勝益として、もう一つ、お伝えしたいことがあります。

それは、今年三月十五日のでき事です。予想を遥かに超えたコロナ禍による、佛法交流の途絶えに耐えがたさを感じられた、東本願寺御法主・光見御法主台下が、正行寺に突然来山あそばされました。

光見台下との対話の眼目は、「住職は、この前、本山で会ったとき、『今』という瞬間は、人間は把握できない。『今』と認識している習慣は、0.35秒遅れた、受動意識、つまり人間機能による結果の記憶、もしくは比較作業などによって生まれた、辻褄合わせ的時間だと、言われたが、それは不可知論に関係してきて、そこには懐疑主義的傾向も懸念されるが、その点、どう思いますか」と御質問いただきました。そこで私からは、「そういえばホワイト先生が、『自分は本来的に不可知論者であった』と仰せでした。その御心は、懐疑派の不可知論ではなく、いわば『恭敬心に支えられた不可知論者』で、これが佛教の『無我』と合致しています」、と申し上げました。その後、光見台下は歸命圓堂五階に向かわれて「久遠劫保和燈菩薩」とのホワイト先生のお位牌に御対面され、いかにも懐かしそうになさっておられました。この一連の、動きにおいて、光見台下の「今 ここに」という佛法聞法の根本の立脚地の確かめが、不動のものとなられたのであろうと拝察いたしました。

また、圓堂にも参詣され、その場に集った我々とともに、本当に和やかになされるお相を拝しました。

「阿弥陀一佛」をもって真宗儀式の根本とするところ、色も形もない、法性法身の用き出す時に三尊と表れる「一光三尊佛」様の御入来の由来を、改めて噛みしめた瞬間でもありました。ホワイト先生のお位牌に御対面され、圓堂に参詣された実際は、英国お同行には、敢えてお伝えさせて頂きました。

私自身、「保和燈菩薩」とお呼びする時、ホワイト先生を生んで下さった、英国の大地、否、世界の大地に感謝している実感が伴います。今後の限りなきホワイト先生の生々としたお用きとともに、生かせて頂くことを無上の喜びと致します。