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御同行の間の如来聖人の存在 第166回ロンドン会座報告

 今週末の第166回ロンドン会座は、光栄にも下田正弘教授をご講師にお迎えすることが出来、非常に嬉しく思いました。長旅にも拘らず、私どものところまでお出で頂きましたこと、ご院家さまはじめお同行の皆さま方のお支えに深く感謝申し上げます。この報恩講御取越は、ここ数年間では最も出席者の多いお会座でした。これはお同行が下田先生のご来英をどれほど深く喜んでいるかを示しています。

「事々無礙の概念について」と題する下田先生のご講話は、故ジョン・ホワイト教授との実りある貴重な対話の継続を意味するものでした。事実、下田先生は、ホワイト先生、佐藤博子さん、青木美歌さんのご逝去は「私自身のお浄土への繋がりを深めて下さった」と仰いました。『真如の図』に呈示されている「思索の手立て」を参考にしながら、下田先生はご講話の焦点を、

「私たちはどのようにして、阿弥陀佛の本願の概念的・知的な理解(信不具足)から、信の一念の開発へと移れるでしょうか?」

「いかにして私たちは、真理とその理解者という二元的分離の経験から、『佛宝と自己が全く一体になる』一如の体験に至ることが出来るのでしょうか?」

という実践的な問いに絞られました。下田先生が思い出させて下さったように、これは本当に重大な問題です。なぜならば、浄土真宗で大切なのは「A領域(佛性)の単なる理解ではなく、それを真に体現すること」だからです。この「具体的信」に至り得る過程が下田先生のお話の主要部分を形成していました。

下田教授の弁舌爽やかにして慈悲深いご高説を私なりに要約させて頂くとすれば、まず私たちはA領域(無為)の存在に気付かねばならないと先生は仰いました。この気付きが出てくるのは、私たちの各々の宿善によってです。一度気が付けば、私たちはその結果として知的ないし概念的理解の限界に直面することになります。もしこの苦悩に満ちた体験が客観的、あるいは外向きなものに留まるならば、それは私たちを更に深い混乱に陥れます。しかし、もしこの苦悩が内省的なものになり勇気を持って立ち向かうならば、それは逆境の只中で誠実な心に変わり、精神的探究に決定的なはずみを与えます。それでもなお、この誠実さはまだ不十分です。というのは、それは求道者の誠実な心(業識)と無為(A領域)の間の共鳴によって出来る縦軸では克服できない疑いの跡が残っているからです。「もし理(A 領域)が凡夫の領域(B領域)から分離して、向上心の灯火としてのみ働くのであれば」「どのようにして、まだ進化の途上にあってまだ十分な可能性を実現していない人々と共感できるでしょうか?」より端的に表現するならば、この疑いは「普遍的な真理の存在を認めるが、その真理の体得した人がいるということには疑いを懐く」という形で現れます。

この疑いの克服は、これまでの段階ですでに発見されている気付きの種を育てる二つのあり方を通して実現します。まずは、A 領域を体得具現している人、つまり先生(善知識)とか「よき友」(お同行)に出会うことです。次にこの出会いは、その結果として、私たちの心に懺悔と感謝で満たす深い発展的な恭敬心をもたらします。この恭敬心は、私たちの中にはたらいているけれども隠されていたA領域(他力)に気付かせてくれます。そして、A領域はただA 領域とのみ(似た者同士で)共鳴するので、同じくA領域と共鳴している他の人々と和することになります。これは、僧伽(二領域が融合した事々無礙)の顕現であり、三輪精舎の建立精神「異質の調和」に現れています。

下田教授の素晴らしいご講話に触発され、活発な討論が続いたお会座は数時間にも及びました。その間、老いも若きも、新参古参の同行も、誰一人として席を立つことなく、流れるような対話に夢中になっていました。お同行の方々は、「先生のお話は『教行信証』を現代英語へ翻訳されたものようだ」と喜び、三輪精舎僧伽での学びと実践において基礎的文献となるに違いないと発言しました。彼らはまた、「私たちの直面する逆境や苦悩に焦点を当てつつ、日常生活に実践的に吸収する必要性にまで及んだ先生のご講話には、明らかに先生の謙虚さと親切心の実践が現れている」と讃嘆されました。

佛教協会会長のデズモンド・ビダルフ博士は、下田教授のご講話は、自身の修行における「菩提心」の重要性とも共鳴するもので、「貪欲と支配を追求する私たちの心を変え、私たちをA領域へと駆り立て向かわせる」利他的慈悲心の純粋な種子ですと謝辞を述べられました。同様に、数学者かつプログラマーとして訓練を積んだクリストファー・ダックベリー氏は、「ここには、自力で歩む私たちのゆく手を阻む抗しがたい力がはたらいています。それは、もっとも重要な問題は知性にゆだねることはできないと危険を知らせる力であり、知性の出どころとはべつな源から出て来ている力です」という下田先生のお言葉に、彼自身の他力との出会いが完璧に表現されていますと仰いました。クリストファーさんは、「この(他)力との出会いこそ、私が三輪精舎に来させて頂いた理由です」と述べられました。

ステファン・ゴード氏は、ご講話によって一輪の中に三輪がある三輪精舎のロゴ について考えさせられたと言われました。最初に三輪精舎に来たのは、禪ガーデンがあったからであり、次には瞑想の会に来るようになり、遂には信心談合の座に出席するようになりました。こういう変化の中で、「三輪」が一輪となるはたらきを感じさせて頂いたと仰いました。エルイサ・エンジェルズさんは、下田先生にA領域とB領域の間の明白な二元性について質問しました。それに対して下田先生は、「このような名称は思索の手立てであり、究極的には分離はありません。真宗の教えによれば、阿弥陀仏はすでにこの無分離の一如に到達しておられ、A領域からそれを私たちに説いて下さっています。阿弥陀さまの御声は、現象界を超えて私たちに届いて下さっています」と答えられました。プヌワニ・香織さんは、「A領域はただA領域とのみ共感する(佛々相念)」ということについての下田先生のご解説に感謝を述べられ、先生のお言葉によって「お寺は法を聞く場ですが、日々の生活と出会いこそが佛法を実践する場です」という建心師のアドバイスを思い出させて頂きましたと仰いました。

この報告文を終わるに当たって、私は下田先生の結論部分の幾つかの大事な言葉に光を当てたいと思います。

「お同行との間に如来聖人の世界が存在しています」「浄土に往生された佐藤博子さん、ジョン・ホワイト先生、そして青木美歌さんの忘れられぬ思い出がすべて、今もなお私たちの内に明らかに生きており、ここに実現されている事々無礙は、彼岸と此岸の境さえ超え、個々の私たちの上にはたらき続けています」。

Prof. Shimoda with the Shogyoji roof tile

ロンドン会座の前に、下田先生は疏開リトリートに参加され、「三輪精舎にいることによって、正行寺の起源を思わせて頂きます」と仰いました。先生がこの発言を更に展開されることはありませんでした。しかしながら、建心師はロンドン会座において、ホワイト先生が正行寺に参詣された時ご院家さまより頂戴された正行寺の屋根瓦の前に下田先生が座っておられることに気付かれました。建心師は下田先生のお母さまがある時「大行院さまはかつて私たちに『世界中の人びとがいつの日かお寺の屋根瓦を受け取りに来る』と仰られました」とその想い出を話して下さったことを共有されました。建心師は、お寺の屋根の瓦は、自分を助けて下さった阿弥陀様にお仕えするお同行の信心の象徴であると感じられたそうです。

お同行のお礼の言葉と下田先生のご講話を振り返り、正行寺と三輪精舎の始原は「如来出世の本懐」を解りたいと真摯に願う個々人の出会いであると感得させて頂きました。これまで何度も報恩講御取越に出席させて頂きましたが、本当にお会座の進展とその意味を「一つに」感じさせて頂いたのは今回が初めてであり、報恩講は単なる追悼法要ではなく、お浄土から私たちを導いて下さっている方々に感謝し敬いを捧げながら交流する時と場であると感じさせて頂きました。

法身の光輪きはもなく

世の盲冥を照らすなり

南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

アンディ・バリット

2023年10月31日