「阿弥陀仏の根源的祈りについて」第151回ロンドン会座報告
第151回ロンドン会座は2021年二月二十八日日曜日に開催されました。これはまだコロナウィルスの真只中だったので、いつものように三輪精舎においてではなく、オンラインでの開催となりました。しかしながら、ズームのおかげで沢山の人々が参加でき、さもなければ遠すぎて参加できないような人たちも含まれていました。アメリカや香港から参加の出席者もおられました。ほとんどの人がその場にいることは叶いませんでしたが、お仏壇の美しい荘厳は一目瞭然、勤行ではすべての人びとが三輪精舎住人の情熱的な読経にたやすく唱和することができました。親鸞聖人のご命日だったので、私たちは親鸞聖人を思い聖人に給わった御恩徳に感謝しました。
勤行の後三輪精舎主管の佐藤顕明師が紹介され、顕明師は「阿弥陀仏の根源的祈りについて」という講題の法話をされました。
それは、真宗の最も重要な教義の一つに関して、大いに心を惹き付ける啓発的なご法話でした。以下はその簡単な要約です。
話の主題は、習慣的にはOriginal VowとかPrimal Vowとか英訳されている阿弥陀仏の本願(サンスクリットではプールヴァ・プラニダーナ)という言葉をどう翻訳するかということでした。お話の大部分は、Original Prayer という言葉を使うかOriginal Vowという言葉を使うかという問題で、鈴木大拙先生はその英訳で、親鸞聖人御自身もそのお手紙で、そのご晩年には、英語ではprayer という言葉、日本語では「祈り」という言葉を使われたということでした。
大分お若いときのことですが、鈴木大拙先生は「しかしここで注意しておきたいのは、vow (誓)という英語の言葉が、プラニダーナというサンスクリット語の意味を表現するのに非常に適切であるとは言えないということである。プラニダーナとは、強い願望、切望、祈り、限りない転生を繰り返してでも意志を貫こうとする不動の決意である」(『大乗仏教概論』)と仰っています。次に顕明師は、仏教経典英訳の初期段階でプールバ・プラニダーナ(本願)はOriginal Prayer (根源的祈り)と訳されていたと仰いました。顕明師は、しかしながら、仏教的観点からすれば、「祈り」という言葉の使用は、いとも簡単にそのサンスクリット語の誤解に繋がる可能性がありますと言われました。なぜなら、prayer (祈り)という言葉には、神や神明や仏や菩薩へ助けを請うという含意があるからですと仰いました。外(outside)の誰かに、「彼方上の」誰かに、助けを乞うというのは、真正な佛道ではありません。外の誰かに助けを求めるだけで内に向かって自らを省みることのない態度は決して真の解決をもたらさないでしょう。
上記のような「祈り」という言葉の使用は、仏教的観点からは消極的否定的なものと見られますが、次に顕明師は鈴木大拙先生がその晩年に「祈り」という言葉を積極的肯定的に使われてた文章を引用されました。「煩悩の活動という事実そのものが、私たちの内にあって私たちを超えている何かを希求させるのである。この希求は<本来の体(法性法身)>のはたらきであり、その事実は法蔵の物語として神話の形で私たちに与えられている。その希求は(法蔵菩薩の)祈りであり、その祈りは外の誰にも向けられていない。祈りは、家に帰りたい、自分自身に帰りたいという願いである」という一節です。
次に顕明師は、親鸞聖人御自身も晩年に「祈り」という言葉を肯定的な意味で使われたことを話され、親鸞聖人のお手紙から「念佛をお心にいれて常に称えて、念佛を誹謗する人々のこの世と後の世のことまでも、一緒にお祈りして下さい。あなた方の浄土往生の種が定まった今、御念仏を今は何のためにお称えになるのでしょうか。ただ間違っている世の人々のことを祈り、阿弥陀仏の御誓願に帰入するようにと思い合わされるならば、それこそ佛のご恩を報じ奉ることになるでしょう」と仰っているお言葉を引用されました。
次に顕明師は、ご自身の師である竹原智明師もまた最近阿弥陀仏の祈りについて話され、阿弥陀仏の本願は、純粋な親の祈りに似て、如来の内なる祈りであると説明くださったと話されました。阿弥陀如来の祈りも親の祈りも、一切が一如であるという目覚めというか思いに基づいているのですと話されました。
顕明師は、鈴木大拙師や親鸞聖人やご院家さまが、祈りという言葉を積極的に使い始められたのは、どなたの場合を取ってみても、ご自身を他の人々に捧げてその人生を生き抜かれた極めて自然な結果であっただろうと思うと述べて、ご法話の結論とされました。他の人々のために生き抜かれた人生において、法身の大用にすべてをお任せする純信によって、自我の執着からの自由を繰り返し繰り返し経験された結果、限りなく仏さまに近くなられた尊いおすがたと拝ませて頂きますと言われました。
ご法話の最中聴衆の皆さんは、阿弥陀仏の本願(根源的祈り)を参加者すべてによりよく解ってもらいたいという顕明師の親切と慈愛を感得することができたことでしょう。
お話しが終ると、沢山の参加者が自らの感想と感謝をのべて述べて下さいました。ある人々は自らの理解が大きく増進したと述べられ、またある人はご法話は本当に感動的だったと言われました。ご法話に関して出た幾つもの質問に顕明師は明瞭に巧みに答えられ、それは質問者ばかりでなくほかのすべてに人にとっても大いなる助けとなりました。多くの感謝の言葉を聞かせて頂くことによって、沢山のゲストがこの御会座に参加しこの僧伽に繋がり得て、ただただ本当に幸せに感じて下さったのだということが、明白に理解できました。オンラインで参加できたということが、通常は三輪精舎に来られない人びとまでも参加し貢献できるようにしました。たとえほとんどの人が現実にそこに居ることはできなくても、お会座の場には本当に温かな友好的な雰囲気があったように思いました。
しかしながら、この疫病の状態ができるだけ早く良化して、私たち自身がまた本当に三輪精舎に参詣できる日の早く来たらんことを願うばかりです。
クリス・ドッド