News

第153回ロンドン会座報告

盛夏のオンライン会座に集まる前からもうすでに、お同行は「親鸞聖人の還相廻向の概念」という佐藤顕明師のご法話について、期待に胸を膨らませながら話し合っていました。今春の疏開リトリートでの石井建心師の「聖徳太子と太子の化現」というご法話が、お同行に還相回向が僧伽の信仰運動の根本的な基盤であるという直観を与えてくれていたのかもしれません。

              顕明先生は、「真宗学者の間には還相回向について話したがらない人々がいて、彼らは還相回向を死後のことだと考えているので、還相回向について話しておきたいと思った」と言われました。そして、還相回向というのは決して「空想的観念」ではなく、むしろ親鸞聖人の現実的な信仰経験であったことを明らかにしたいと思われたそうです。顕明先生は「親鸞聖人は還相回向について語らざるを得なかったのです。なぜなら、それは目の当たりにしている現実だったからです。親鸞聖人は、わが身を救済に応現の菩薩として、師法然聖人に出遇われたのです」と力強く説かれました。

顕明先生はご法話の中で、「真宗信者は、業繋の身からは『不回向』だと正しく教えられています。しかし、それ故に、『念佛して急ぎ佛になりて、大慈大悲心を持って思ふが如く衆生を利益するをいふべきなり』というような親鸞聖人の『浄土の慈悲』の教えについて、どうしてそこまでいえるのだろうと考え込んで、疑いに陥ることもあり得るのです」と述べられ、この問題を注意深く詳細に論じられました。その肝心な点を要約して「この南無阿弥陀佛の妙用には、このありのままの唯稱佛には、二分もなければ、二元もなければ、知的な分別もありません。主観と客観、学生と先生、施者と所施、説者と聽者、往相と還相、死後と生存中、そのような区別はまったくありません。それらはすべて、阿弥陀佛の無縁の大悲のはたらき-南無阿弥陀仏-の絶対的なリアリティにおいて、まったく一如であります-南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と結ばれました。

ご法話に続いて、質疑応答、お礼の座がありました。マックス・ニルソン・ラドナー氏(香港より参加)は、顕明師のご法話にお礼を述べて、他者を菩薩として見ることの難しさについて話されました。それに対して先生は「他者を菩薩として見るのは、決して真宗信者の「義務」ではなく、親鸞聖人の仰せのごとく、信仰経験の事実です。一念の信に目覚めれば、自然にそうなるのです」と明らかにされました。

ニール・チェイス氏(アメリカからの参加者)は、「浄土を遠くの場所と考えていたけれども、今はお同行を通してそれがこの世に、この人生に、活き活きと輝いているのを見ることができます」と言われました。同様な披瀝がもう一人のお同行からもあって、先生はお二人の所感に賛同されましたが、日常生活においては知的な分別に陥り易いということを指摘され、「ただ念仏するのみ、南無阿弥陀仏だけ」と再確認されました。デーヴ・ジママン氏は、顕明先生のご法話に謝意を述べられ、念佛道は「蓄積して臨終に報酬を受けるというような功績基盤のものでないということを思い出させて頂きました」とお礼を述べられ、「ご廻向は念佛申す瞬間のことですね」と付け加えられました。

              石井建心師は顕明先生に感謝の言葉を述べられた後、次のように仰いました。「正行寺僧伽におらせて頂けば、還相回向は身の周りの事実として明らかですから、還相回向について疑う心は発りません。しかしながら、私はイギリスに来てからしばらくの間、人々に対する敬いの心を欠き、ただ「普通の人」として接していました。しかしながら、ある日イギリスのお同行が真摯にお念佛を称えておられるのを聞かせて頂いて、正行寺僧伽でお同行と共に修行させて頂いていた時とまったく同じ精神的場にいることに気付かせて頂きました」と振り返られ、その気づきがお同行を諸佛と拝むきっかけとなったことを話されました。建心師はまた、「獲信の瞬間は、精神的死を経験して新生するが如くであり、『往き易くして人無し』という伝統的な表現は、極難信を意味するにとどまらず、浄土の往生人は衆生救済のために直ちにこの世に還ってくるということを暗示しているようにも思われる」と仰いました。

              顕明師の法話は深遠にして複雑でしたが、ただ帰依して念佛を称えるだけという簡明なメッセージ(教え)が、集ったお同行へ安らかに易しく語りかけられる先生のお相を通して、非常に明瞭に柔軟に伝わってまいりました。

南無阿弥陀仏、合掌 アンディ・バリット