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慈愛と静寂さの中で、友や家族と、感謝の念佛を生きましょう

(第160回ロンドン会座記録)

2022 年 10 月 23 日(日)、第 160 回ロンドン会座が 2022 年度報恩講御取越として開催されました。出席者は例年より少なかったものの、多くの若いお同行や新たな参加者が、活気に満ちた明るい雰囲気をお会座にもたらして下さいました。また、先立って開かれた疏開リトリートの参加者も列席し、報恩講のお勤めを通して、宗祖・親鸞聖人に対する喜び溢れる感謝の気持ちを伝えさせて頂きました。

報恩講の勤行後、司会のアンドリュー・ウェブ氏は、「報謝の念仏について」と題してご法話をされる三輪精舎主管・佐藤顕明師を紹介されました。アンドリュー氏によると、顕明先生は親鸞聖人の御消息の翻訳作業を通して、既存の英訳の中に多くの誤訳を発見されたそうです。この間違いが、一部の西洋の仏教徒や学者の間で、蓮如上人が親鸞聖人とは異なる法を説いたという残念な誤解を招いた原因の一つになっているというのが、アンドリュー氏の見解です。「顕明先生の新訳を読むと、親鸞聖人と蓮如上人の二人のお師匠の一体性と連続性がよくわかります」とアンドリュー氏は語られました。

冒頭、顕明先生は、親鸞聖人の御消息を翻訳することは、友人の故ジョン・ホワイト教授(Three Wheels, London Shogyoji Trustの元名誉書記・理事)の最後の願いにお応えするために始めたことであると述懐されました。先生は、「この『親友の願い』によって、真宗の教えのいくつかの重要な特徴について、はるかに深いレベルで理解を新たにすることができた」と仰いました。 その中でも、今回は「報謝の念仏」に焦点をあてたお話を聞かせて頂きました。

まず顕明先生は、私たちが毎日拝聴する蓮如上人の御文の「あなかしこ あなかしこ」という親しみあるお言葉が、親鸞聖人ご自身の御消息に由来していることを指摘され、「親鸞聖人への敬慕の念この上なき蓮如上人が、先師のこの謙譲語の使い方をそのまま踏襲されたのです」と仰いました。

そして、「報謝の念仏は、阿弥陀仏にお任せするという喜びの極みから流れ出るものである」と説かれました。しかし、「信心決定の瞬間に称える念仏と、獲信後に称える念仏の重要な違いに気づくことが大切である」とも仰いました。前者は、真実信を得た「一念発起の瞬間」のことであり、後者は、この目覚めに対する私たちの感謝の表現です。蓮如上人は、「信心獲得後の念仏は、ただ仏様が私たちにしてくださったことへの感謝であると理解すべきです」とおっしゃっています。親鸞聖人の御消息では、この後者の念仏において、「信心に目覚めた後、生涯にわたって報謝の念仏を称えるのも、ひとえに他力の働きである」ことが強調されているのです。

また先生は、真宗は本願他力であるから、「感謝」の概念には、道徳的な義務感や責任感はなく、むしろその本質は、目覚めの体験とそこからごく自然に湧き出る愛にあると、重要な指摘をされています。

次に顕明先生は、阿弥陀仏の本願他力に基づく「気付きの念仏」と「報謝の念仏」は、阿弥陀仏の本願の「自利・他利」の次元に対応するものであると説かれました。親鸞聖人が御消息第三、九、十、十三、十六通の中で、次のように表現されているのは、この平等な救済の願いというか祈りである。親鸞聖人はそのようなご消息の中で、「特に念仏を謗る者を救うために、誠心誠意念仏を申し上げなければならない」、「自分の往生を確信し、仏恩を思う者は、心からの感謝をもって、『世の中安穏なれ、仏法弘まれ』という心で念仏を申し上げなければならない」などと述べておられます。最後に先生は、「御恩報謝念仏は、単に自分の個人的な感謝の表現ではなく、衆生済度の深い祈りの表現でもある」と仰いました。また、「この祈りは、阿弥陀如来の大願業力、すなわち「一切の個別存在がそのままで一如である」という根本真理の大用に帰らせて頂くとき、阿弥陀如来からの贈り物として与えられるのである」と付け加えられました。

顕明先生のお話の後は、お礼と質疑応答の時間が持たれました。クリストファー・ダックスベリー氏は、親鸞聖人が「念仏を謗る者のために祈りましょう」と言われたことに感動し、言葉を失ったと述べられました。サム・ケリー氏は、親鸞聖人が御消息を執筆された時代は、現代よりもさらに困難な時代であり、特に念仏者にとっては大変な時代であったが、そのような状況でも親鸞聖人は謗法者のために祈りましょうと言われたことは、”差別のない普遍的な救済のための深遠な祈り “(弘願)が真実であることをはっきりと示していると述べられました。

クリス・ドッド氏は、先生の言われた 「一切の個別存在がそのままで一如である」というお言葉を強調しました。この自他一如の世界において、すでに仏に抱かれている自分に気づくことはとても素晴らしいことであり、それは「自分の世界」ではなく「贈り物」であると感じたと述べました。

法然上人の教えを慕われて初めて来舎し、発言を求められたギャリー氏は、親鸞聖人のみ教えを理解するのにまだ奮闘しているとのことでした。しかし顕明先生は、多くの真宗門徒は真宗と法然上人の教えが違うと思っているが、それは違う、とおっしゃいました。親鸞聖人は、最期まで法然上人の教えを引用され、常に師匠の教えに忠実に戻っていかれました。先生は、法然上人は善導大師の教えを拝読することによって他力念仏に廻心されたのですとおっしゃいました。法然上人が受け取られた善導大師の教えを読めば、阿弥陀如来にお任せする信心と完全に合致していることがわかります。先生は、「法然上人には多くの弟子がいて、法然上人をよく理解する者もいれば、そうでない者もいるから、聞く相手には気をつけなられたほうがいいですよ」と言われました。

アンディ・バリットからは、「信仰の喜びをどのように他の人と分かち合うべきか」という質問をさせて頂きました。建心師は、「『私は聞いたことがある』もしくは『私は知っている』と思った時点で、すでに新しいお同行に対して傲慢になるという悪い傾向を持ってしまいます。教えてあげるという思いがある時点で、すでに私たちは暗闇の中に戻ってしまいます。喜びを分かちあいたいという最初の純粋な衝動は、仏さまから頂く利他のはたらきなので、感謝の気持ちを新しいお同行に言葉で理屈的に説明するのではなく、仏さまと真向かいになって表現するだけだと思います。仏法を聴いて、純粋に感謝と懺悔をすれば、その私たちの聞く姿勢が自然に他の人の聞法の助けになると思います」と答えて下さいました。

最後に顕明先生は、「報謝の念仏は、信心獲得後の余生そのものを指します。感謝は、謙虚と尊敬を意味します。そこには慢心もなく執着もありません。友人や家族と共に、静かに、愛を持って、行為のために行為する、御恩報謝の念仏を生きましょう」と述べられました。

最後に、数人の新参加者が自己紹介をしました。パールさん(19歳)は、お寺に通い始めて1ヶ月になるそうです。京都に住むご親戚から初めて真宗のことを聞かれたそうで、「真宗の教えはとても心に響く」とおっしゃっていました。顕明先生の知人のひ孫の一輝さんも来ておられました。大谷大学を卒業した僧侶(仰信さんの後輩で、たまたま大分県臼杵市出身)で、現在ワーキングホリデーで英国に滞在しています。Royal Holloway大学の学生、ジェームス・マーティンさんも自己紹介をしてくれました。昔、三輪精舎の庭造りを手伝ったサイモン・マーティンさんの長男さんです。ジェームスさんは「私は倫理を勉強していますが、その基礎がないことに気づき、調べたいと思っていました。今日のお話で基礎ができました。」と言われました。

31st October 2022

南無阿弥陀仏

合掌

アンディ・バリット

20221031