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無執着について – 第163回ロンドン会座報告 –

第31回疏開リトリート閉講式に引き続き、疏開参加者は三輪精舎住人と共に、第163回ロンドン会座へ参詣者をお迎えする準備に取り掛からせて頂き、速やかに椅子を並べてお仏間の準備が整えられると、私たちはみんな一緒に佛さまに感謝申し上げるお勤めを厳修させて頂きました。

佐藤顕明師は「無執着について」と題する法話において、仏教の理想的境に到達された「賢人」たちの言葉を詳しく振り返り、すべての宗派の根底に共通してあるこの深遠な仏教的概念の意味について 話して下さいました。

まず、顕明師のお心にあったのは、「無執着」ということを大事にされた彼の親友、故ジョン・ホワイト教授のお言葉でした。ホワイト先生は、仏教から与えられる人生の三つの理想の一つとして、「出会い」「行為のための行為」と並んで「無執着」を尊び、人生を最良の形で生きるために常に目指すべきものであるとされました。

顕明師は、「無執着」ということと釈尊の根本教理の一つである「無常」との深い関係について話されました。この世のすべては絶えず流れており、創造に向かうにしろ破壊に向かうにしろ、常に生成ないし変化の過程にあります。私たちが誰かや何かを見たり聞いたりすると、私たちの心は直ちに感受したものに執着します。そして、そのつかの間の限られたイメージを確実なものであると思い、知性によってそれを真実だと思い込んでしまうのです。しかしながら、私たちが見聞し理解するのは、その対象の、あるいはその人の、ほんの僅かな一部でしかありませんし、私たちが感じ取り理解するのは、迷妄でしかありません。これは、ジョン・ホワイト教授が非常に深く自覚し、詩や講話で頻繁に確かめられたところです。

無知に基づくこの執着は、佛さまの教えでは一切衆生を悩ます苦の根本原因です。顕明師は、最も大事なのは、私たちの意識の底に深く埋められているこの渇愛に気付くことですと説かれました。この気づきはやがて、すべてを佛さまにお任せする他力信心に目覚めさせ、必ずや私たちを無執着の世界に導いてくれます。私たちは、自己中心的執着の強さ故に、自らを愛し同時に他を愛するという大乗仏教の理想の実現を不可能だと思い、自らも他も共に害することになるのです。そのため、最も大事なのは、他者をありのままに愛することですと、顕明師は説かれました。ジョン・ホワイト教授は、「無執着」を講題とするご講話の中で、この点についてのご領解を、「もし私たちが自らに対して安らかでなければ、いくら努力しても、他に対して安らかにはなれないでしょう」と表現しておられます。

次に顕明師は、正行寺再興の師、竹原嶺音師(大行院さま)のご生涯について語られました。人生の岐路に立たされ、進むべき方向が解らなくなっていた時、大行院さまはある禅僧に出会って無執着ということを教えられましたが、その教えは真実であることはわかるけれども、深遠すぎて実現することはほとんど不可能だと思われました。しかしながら、大行院さまは遂に摂取不捨なる阿弥陀仏の大慈大悲に目覚められ、「光り輝く一真実の世界」を体得なさいました。顕明師は、三輪精舎の淵源を尋ねれば、それは大行院さまの信心開発であり、そのお蔭で私たちは今この素晴らしいみ教えに与かることが出来ているのですと説かれました。

ご講話の後半において、顕明師は、過去60年以上に亘って、自らの無執着の理解、無常への気付き、他力信心の目覚めに、深い関連性を感じ続けていた或る書物を紹介されました。それは、鴨長明の『方丈記』であり、顕明師は、その冒頭部分と結論部分を、彼自身の新しい翻訳によって、紹介してくれました。それは、「佛の教へたまふおもむきはことにふれて執心なかれとなり」という文章に要約されている、鴨長明の仏教の真髄への安らかな気付きの感動的な記録でした。

『方丈記』の最後の節で、鴨長明は自らの心を深く見つめ自問自答しながら、世俗を去って小さな庵で隠遁の生活をしているにも拘わらず、自分の心はまだ「濁りに染まっている」ことに気付かされます。そのような強い自覚に到達したとき、長明の実存の深みからごく自然にお念佛が湧いて出ます。

『方丈記』の結論の部分には、

「只、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」。

とあります。

顕明師の翻訳の独創性は、鴨長明の純粋な他力信心を明瞭に英訳しているところにあります。顕明師は「ただお念佛の大きなはたらきがあるだけ、一如に溶け去って主客の別もありません」と述べておられます。顕明師は、正行寺のお御堂で或るお同行(小野原先生)が方丈記について講話され、この最後の一行を読み上げられた時、師の恵契法母が大きな声でお念佛を称えられたことを思い出しながら、恵契さまはその他力信心から、この一行をこの上なく深く理解しておられたに違いないと、その若き日の思い出を語られました。

ご法話の最後の部分で顕明師は、まだ英語に訳されたことのない親鸞聖人の最後の著書『弥陀如来名号徳』 を英訳して、その一部を紹介して下さいました。このご著書において親鸞聖人は、法蔵菩薩、即ち菩薩位の阿弥陀仏が、私たち衆生を三毒煩悩の苦患から救わんがために、種々の光明を創られたことを書いておられます。顕明師によれば、それは親鸞聖人が法蔵菩薩のすぐそばにおられるということを確信せしめられるご文章です。その点を熟考の結果顕明師は、「この法蔵菩薩は、晩年の親鸞聖人になおも語り続けておられる法然上人だったに違いない」という印象を与えられたそうです。顕明師は、お一人お一人が法蔵菩薩のご化身に他ならず、常に「そのまま来なさい」とお呼びかけ下さっている、ご院家さま、恵契さま、大行院さまへの深い感謝の意を表白なさって、ご法話を締め括られました。

司会のアンディ・バリット氏は、参加者に所感の披歴を呼び掛けながら、顕明師のご法話を聞かせて頂いて、無執着の真実に目覚められた三人の方々、つまり三輪精舎もその一部である信仰運動を始められた竹原嶺音師、顕明師にこれまで影響を与え続けた『方丈記』の著者である鴨長明、その学歴を捨てて正行寺の僧侶となられた顕明師自身に、出会わせて頂きましたと自らの所感を語られました。

ペドロ・サンティアゴ氏は、「私たちはいかにして、私たちが終に阿弥陀仏の信仰を得たのが、いつ何時だったと知ることができるのでしょう」と顕明師に質問されました。竹原嶺音師の場合のように、あなたがあなた自身の深い絶望から救われれば、それは非常に明らかなことではないでしょうかと応えられ、さらに阿弥陀仏は常に私たちと共にあるのですが、その事実に目覚めるのは私たちの人生で非常に特別な出来事ですと続けられました。顕明師は、彼の兄上・父上の入信によって、その家族全員が正行寺と深い関係を頂戴することになったこと、それによって正行寺での聴聞をお願いすることになり、顕明師自身も阿弥陀佛の無縁の大悲に目覚め、「極重悪人唯称佛」と心の底から感謝と懺悔のお念佛を称えさせて頂いたと仰いました。

石井建心師は、顕明師に対して、無執着の意味に関する素晴らしいご法話に感謝を述べられました。無執着という主題から学んだのは、私たちはみんな自分の経験したことに執着するということです。自らの過去を振り返ってみれば、私たちがどれほど深く経験の対象に執着しているかが解ります。しかしながら、それらの対象への愛着は、その対象が自分の望むところと一致しなければ、いとも簡単に憎しみに変化してしまいます。仏教の教えでは、この執着は無知に基づいています。しかし、この無知というのは、知識の欠如という意味ではなく、私たちが佛法によって受け取らせて頂く人生の真実に対する無知です。顕明師のご法話は私たちを明るい未来へと導いて下さいますと結ばれました。

ロンドン会座初参加のロバートさんは、三輪精舎の瞑想の会に参加されており、「三輪精舎僧伽の簡素さと誠実さと親しみやすさを有難く思っています」と自己紹介されました。ロバートさんは、「顕明師より聞かせて頂いた素晴らしい教えに本当に感動しました。今日のお話で気付かせて頂いたのは、私たちの目覚めに必要なことは、まず私たちの生活にある苦を自覚することだということです」と仰いました。

ご自身の人生の苦闘とそれが自他の上に惹起した苦惱を私たちに話して下さりながら、顕明師は、無執着の本当の意味を私たちと共に考えて下さいました。自己の執拗な執着心に気付かせて頂き、すべてを阿弥陀仏にお任せすることによって、無執着に目覚めさせて頂くことが出来るのだということを明瞭に示して下さいました。顕明師がご法話で私たちに話して下さった実例は、何事にも執着のない阿弥陀仏の清浄な光明と無辺の大悲が、私どもの頂戴するみ教えと善知識同行の生活を通して、常に私どもを照耀して下さっていることを明らかにして下さいました。『方丈記』の文章の新しい英訳を聞かせて頂いて、顕明師は、その信仰経験とそれを私たちに伝えたいという強い願いによって、鴨長明がお念佛を称えた時に彼の舌根を借りて湧出した阿弥陀仏他力信心の目覚めを英語に翻訳できる唯一の人であると実感しました。このような特別なロンドン会座に会わせて頂き、本当に有難うございました。

アンドリュー・ウェブ