News

『佛教と俳句』 第150回ロンドン会座報告

第150回ロンドン会座は12月6日に開催されました。これは、継続中の疫病制限のために、オンラインでもたれた最初のロンドン会座でした。それは久方ぶりにお会座に参加する好機でしたから、多くの人々は僧伽の一員として再び一緒になれるこの絶好の機会を非常に喜びました。それはまた、私たちすべてが心に素晴らしい想い出を懐く佐藤博子夫人の三回忌でもありました。このお会座の中心はジョン・ホワイト教授の「仏教と俳句」についてのご講話でした。ホワイト教授は顕明師と共に松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶といった三人の偉大な俳人それぞれの三百句を含む三冊の本を作られました。その三冊の本はみな過去二年間に出版されており、私自身を含めて多くの人々が愛読させて頂いています。ですから、私たちはみんなホワイト教授がこの主題について詳細な議論を展開されるのを待ち望んでいました。

ご講話は、神道と佛教の関係についての短かな論述に始まり、日本土着の宗教である神道は、仏教が日本に着いた時仏教に対して「みずからがこの上ない喜びをもって育成してきた非常に特別な自然への愛」を与えたという事実を強調されました。ホワイト教授は更にまた詩と仏教的信仰の間には強い関連があると説明され、詩はほかの形態の文献より遥かに記憶しやすいので、法を口頭伝達していた時代には非常に重要であったという事実を指摘されました。

芭蕉、蕪村、一茶の三句聖はみな敬虔な仏教とでした。しかしながら、ホワイト教授は、彼らの俳句がなべて重要なのは、宗派的な僧院的な姿勢を取るのではなく、俳句が「自ら深い信念や信仰を有する詩人一人ひとりの作品だから」であると指摘されました。ですから、詩人たちはその句作において特別な教義に縛られていません。教授は、私たちが安易に彼らにレッテルを貼るのはよくないと説明なさいました。

それから先生のご講話は、彼らの俳句の幾つかを取り上げてそれを詳細に検討し始めました。その中で私が特に際立っていると思ったのは、次の一茶の句です。

朝露に浄土参りのけいこ哉

ホワイト教授は、露はこの世の至極の象徴だと説明なさいました。私個人にとってこの俳句は、最近自然の中を散歩しながら感得した「すべては繋がっているという感じ」を完全に捉えているように思えます。そのような「この世の至極の象徴」は本当に浄土への道行き指し示していると思われ、この俳句はこの事実を強く思い出させてくれる詩です。ホワイト教授は露を詠う俳句を幾つも見せてくれ、そういう俳句が無常の象徴としても使い得ることをお示し下さいました。

ご講話で次に言及された幾つかの俳句は、俳人たちが彼らの日常生活をどれほど見事に生き生きと捉えていたかを示すもので、ホワイト教授ご自身は「日本の俳人の環境や人生そのものへの独特な現実的アプローチを極端な形で縮図的に示すものである」と述べられました。ホワイト教授は、彼らをイギリスの詩人と比較して、「英国の主要な詩人は誰であろうとも、十七・十八世紀頃の現実生活にそのような眼の覚めるような洞察を示すというところまで、とてもとても近付いてさえいませんでした」と説明なさいました。

次にホワイト教授が論じられたのは、俳句は宗教的信仰ばかりでなく、人間関係や人生の問題、「自然界の不思議のすべて」、「いうまでもなく愛はどこにでもあるものであること」、そういうことすべてを含むのだということです。これは、私が俳句の翻訳を読んでいて最高に楽しめたこと、最も深遠に思われたことの一つです。そのような豊かな情感が数少ない音節に凝縮され得るというのは、信じられないことのように思われます。ご講話に引用された俳句に描かれている恋愛感情の一例は

妹が垣根さみせん草の花咲きぬ

です。

ホワイト教授はこの俳句の出だしの部分は「たくさんの意味や解釈への可能性を切り開くのですが、多くの場合それはそのままに残しておくのがよい」と説明されました。すなわち、詳細な説明は役に立たないのであって、これがこれら英訳俳句本の出版に当たって説明的註釈が短く収められた理由であります。

次に取り上げられた俳句は、詩が「突然に新しい世界を切り開いて、自然界の何か小さな事柄というか細部に、広大無辺で宇宙的な意味を与える」実例を示していました。多くの場に見られる無常とか、転生とか、無我など佛教に共通なものを示すのであり、例えば次の芭蕉の俳句です。

梢よりあだに落けり蝉のから

ご講話の次の部分は、現代医学用語の共感覚(シネスシージア)に似た言葉の使用を論じていました。共感覚というのは、ある一つの感覚へのインプットが意図を超えて別な感覚での鮮明な経験を引き起こすことになるのです。例えば、色が匂いをもつのです。ホワイト教授は、風の香りや色、暗闇の音などが語られている俳句の数例を挙げられました。「すべての有と無の一如」という根本概念が表面に浮かび上がってきている実例として、一茶の次の句を引かれていました。

せみなくやつくづく赤い風車

一茶が聞いた音の赤さというのは、何か一つの源に依拠しているのではなく、その源はすべての有機と無機が、一茶の聞と見と想像力が、すべて一つに結びついたところにあるという意味で、一切のものの縁起をも捉えているのであると、ホワイト教授は説明されました。

最後にホワイト教授は、俳句は、その短さと簡潔さの故に、その多くが、浄土への道中の冥想に完全な出発点を形成できるということを強調して、そのご講話の結論となさいました。たとえ詩について何も知らないとしても、私はこれらの俳句を声に出して読み、意味を考えながらそれを反復することに大きな喜びを覚え、それが内に呼び起こす感動を見て、それが今度は私の佛法への繋がりを深めるというのは、私自身の経験したところでございました。

ご講話の後、司会のアンディ・バリット氏は「俳句といのちそのものについて新鮮な見方」を教えて頂いたとお礼を述べられました。それに続いて私は、異なった俳人の俳句を翻訳して何か違うところがありましたかと問いました。ホワイト教授の答えは、大事なのは純粋に翻訳そのものに集中することだということでした。純粋に翻訳そのものに集中するのでなければ、当面の特別な詩人に焦点を絞って懸命に努力するとしても、詩を変えてしまうかもしれないでしょうと仰いました。

ホワイト教授はまた、俳句は何度も繰り返し読みそれに帰り続けることが大事ですと仰いました。そのようにして、皆さんは俳句についてますます多くを理解し始め、「ただ帰り続ける事によってのみ、皆さんは俳句と本当に触れることになるでしょう」と仰いました。ホワイト先生は、ですから俳句に、帰って来る度により深い出会いがあるというのは、ちょうど禅ガーデンのようなものですと仰いました。

次に顕明師は、先日ホワイト教授がこの同じご講話を正行寺僧伽の人々にオンラインで話された時、とてつもなく大きな反響があったと報告されました。ご講話は直ちに様ざまな会合で話し合われるようになり、より深くその意味を吸収するためにそういう会合はいまだに進行中ですと仰いました。また、日本人にとっても俳句の理解は必ずしも容易でなく、多くの人々がご講話を聞いて始めて俳句が解ったといわれていると話されました。

石井建心師は特にご講話の結論部分に対する感謝を述べられました。それは一茶の

蝶とぶや此世に望みないように

という俳句でした。建心師は「博子さんもそうだったように、ホワイト先生はこの蝶のように生きておられる、私もこの蝶のようになりたい」と仰いました。

最後にアンディ・バリット氏は同じご講話を聞かれた正行寺の方々の所感を読み上げられました。そのご所感において、ご院家さまはホワイト教授に対して「ホワイト先生は、今年は九十六歳のご高齢に及ばれ、「有と無の一如」の真実に全てを投ぜられる真正直なお相に、計り知れない迫力が私に差し迫って参ります」とお礼を述べられました。

全体としてホワイト教授のご講話は、私はすでに先生の俳句の本をとても楽しませて頂いているという事実にもかかわらず、先生の俳句翻訳に対する私の理解を大いに増幅して下さいました。そのようなものとして私はこれから長年にわたってこれらの俳句を読み続けられる楽しい日々を期待しており、先生が説明されたように、俳句との更なる真実のふれあいをして行きたいと思っています。

クリストファー・ダックスベリー