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第31回疏開リトリート「無執着」(2023年4月28‐30日)報告

親愛なるご院家さま

この度は、「無執着」をテーマとした第31回三輪精舎疏開リトリートを開催していただき、ご院家さま、正行寺お同行の皆さまに深く感謝申し上げます。 

リトリート事前座談会では、執着は無限にあるが、無執着を実行することは遥かに困難であるということに、参加者全員が同意しました。デーヴ・ジママンさんは、「無執着は自我では経験できません」と言われ、別なお同行は「執着と無執着は対をなすものではありません。執着は欲望と嫌悪を含む二元的なものですが、無執着はいかなる対立をも完全に超えています」と述べました。 

.非常に難しいテーマに対面しながらも、私たちは幸運にも、アンドリュー・ウェブ氏の素晴らしい誓いの言葉を聞かせて頂くことが出来ました。アンドリューさんは、彼のお母さんに対して特別な介護が必要なために自宅に戻れないことを告げねばならなかった最近の経験を話してくれました。お母さんに対して、いかにしてこの悲しい現実を告げるか悩みぬいて、石井建心師に相談されました。建心師は深い精神的確信をもって「大丈夫。お母さんは全て解って下さいますよ」と仰いました。

アンドリューさんがお母さんを見舞われたとき、お母さんは彼に対して、家に帰れるのを楽しみにしている事を話し始められました。しかし、お母さんはアンドリューさんをじっと見つめると、突然言おうとしておられたことを止めて、「家には帰れないのよね」と仰いました。アンドリューさんが、ベッドの側に膝まずいてお詫び申し上げると、お母さんは「心配しないで。何が起こっても私は大丈夫だから」と仰いました。アンドリューさんは、その瞬間にお母さんがすべての執着を超えて無条件の慈愛を示して下さったと感じられたそうです。そして、その経験によって、なぜ阿弥陀仏が「大親さま」と呼ばれるのか、理解させて頂いたと言われました。

アンドリューさんとお母さんのこの不思議な出会い直しに照らされて、疏開リトリートは非常に自然に安らかに流れ始めました。 リトリートの最初の座談会において、鈴木佳さんは、彼女の親友が病に倒れた時のことを話して下さいました。事前座談会で聞いてもらうことにより、佳さんは、その人の手術に対する自分の心配が執着から生まれていたことに気づかれ、相手の人をも苦しめていたことに気づかせて頂いたと言われました。自らの執心から解放されて、その友人も安堵されたのが解りましたと仰いました。 

佳さんのお話を聞くことによって、私自身は、病を持つ妻にとって自分自身が同様な重荷になっていたと気付かされました。私の自己中心的な態度に気がつき、直ちに妻に電話をしてお詫びしました。すると、これを聞かれた佳さんもまた、彼女のお母さんに対する振る舞いを反省して、勇気を出してお母さんに電話してご免なさいと謝罪されたそうです。このようにして、「自利利他」の他力のはたらきが、疏開リトリートの過程に自然に働き始めました。またあるお同行は、自らの自己執着がお同行に対する誤解を生んでいたことに気づき、皆の前で懺悔されるということにもなりました。このようにして、非常に素晴らしい出来事によって、私たちは阿弥陀如来の浄化の用きを次第に見出し、アンドリュー・ウェブ氏の「無執着は賜り物である」という言葉の意味を確かめさせて頂きました。 

あるお同行は、「愛する人が死ぬときの苦は自然だと思う」と言いましたが、それに対して別なお同行は「博子さんが亡くなるとき、博子さんは私たちに苦しみを味わって欲しかったのでしょうか」と尋ね、皆さんは「いいえ違います」と応えられました。この問答を聞きながら、建心師は「喪に服する時間は、賜ったご恩に気づかせて頂く好機です。そうなれば、私たちの執着から生まれる悲しみの涙は感謝の涙に変わるでしょう」と仰いました。 

クリストファーさんは、顕明先生が、「継続的な行」に執着する傾向があると忠告してくれたという話をしてくれました。別なお同行はその話に共感を示し、自分は修行のために静かな空間を作ることに執着していて、しかもその静かな空間の創造を支えて来てくれた人を障害と見做してきていたと披瀝されました。 

土曜日には建心師が「無執着、懺悔と感謝」というお話をして下さいました。私たちの苦しみは外的要素や対象から生じるものではなく、私たちの煩悩から生まれる自己執着が原因ですと教えて下さいました。これを明らかにするためにと、建心師は問を投げかけられました。まずは「私たちが何かや誰かに執着する時、自分の姿はどうなっていますか」という問いと「私たちはどうしたら煩悩を抱えながら佛法を実践することができるでしょう」という二つの問いです。

ご自身の執着心とそこから救われた実際を振り返って、建心師は親鸞聖人の御和讃と恵契さまのお言葉を伝えて下さいました。 

「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍滿す 愛憎違順することは 高峯岳山にことならず」(親鸞聖人)

 「自分に都合のいい事を言われた時は頭を下げてお礼を言うが、都合が悪いと鬼のような形相をして牙を剥いている」(恵契さま)

 この自己中心的な心の動きは、自分の周りの人々を変えようとする計らい心によって、新たな業因を造りながら果てしない苦しみになっていきます。 建心師は、そのような苦悩や苦痛を克服するためには、一人一人が自らに真剣に向き合うことが大事ですと仰いました。さもなければ、いとも簡単に自損損他に及ぶからです。ニュースで頻繁に報道されるように、殺人や自殺でさえも、私たちが考えている以上に身近にあって、私たちはそのような悲劇的事件をもたらす危険を持っています。ですから、私たちは自らを見つめて、一人一人がこころに自己執着という同じ業因を持っていることに目覚めなければなりません。 煩悩を抱えながら、いかにして佛法を行じ得るかを考えながら、建心さんは私たちに「ところで、どうして私たちは自分を守り正当化するのでしょうか。佛道修行において、それは必要なのですか」と問いかけられました。建心師は「佛さまやお同行の前では自己を守り正当化する必要はありません、なぜなら、阿弥陀仏はその限りないお慈悲によって私たちを助けようとして下さっているのですから。他者は私たちの敵ではなく、むしろ支援者です。私たちの為すべきことは、ただ謙虚かつ真摯に、人生の苦はすべて自らの業の結果であることを認め受け入れることです」と説かれました。

建心師は、「仏法は佛さまに与えられた妙薬です、貪欲と瞋恚は自己執着という心の病の症状です、そして念佛の僧伽は、自らの心の病を自覚して治療してほしいと願う患者のための病院です。この「病院」で特別なことは、その念佛僧伽で働いている人は皆、かつては他の人たちに助けられた患者さんだったということです。最近ご院家さまは、『ただ佛様というよりも、お同行のこころを拝んで下さい』と仰って下さいました」と言われました。建心師が仰ったように、私たちにとって、僧伽で最も重要な修行は、信心深いお同行のこころを拝んでお念佛の意味と用きを受け取ることです。 

建心師は最後に、「私たちの計らい心は、自身の執着から出てくる期待の結果です。私たちは何かをする時に自分のやり方や考え方に執着してはならないし、自分の好む結果を期待すべきではありません。もし結果が望むところと違っても、そのままにしておくべきです。なぜなら、すべては自然に、そうなるように成っていっているのですから。私たちはまだ煩悩を持っていますが、懺悔と感謝のお念佛が溢れるその一瞬は、他力によって執着から解放されます」と結ばれました。

 アンドリュー・ウェブ氏は、建心師にその素晴らしい包括的な法話に対して感謝し、「私はご法話の中にはっきりと私の全人生を見ることが出来ました。助言を受けると、固くなってしまい、自己防御のために腹を立ててしまいます」と仰り、「多くの宗教は、人々に対して従うべき特別な教えや行いを与えることに集中しているようですが、私たちは今すでに阿弥陀さまに与えられています」と付け加えられました。

エルイスさんは、ただほかの人を喜ばせるためだけに、助言に従う傾向があるとすれば、どうすべきかと問い、彼女の場合は、しかしながら、怒りが恥じらいの感情から出てくるのを感じますと言われました。最初の点に関して、建心師は「佛さまである一人の善知識さまに出会えば、あなたの周りのすべての人が諸佛として現れてくるでしょう。そうなれば、ほかの人々の助言が理解できなくても「はい」と言うことは、盲目的信ではなくなります」と応えられました。別なお同行は「もしあなたが誰かの助言をそのまま受け入れることが出来ないならば、その助言を完全に否定してしまわないで、それを心において、時折そこに帰りながら、内省の源にして下さい」と話されました。第二点に関しては、建心師は「もし誰かがあなたをこき下ろすようなことがあれば、その人や少人数に焦点を絞るのではなく、むしろより多くの人々からどれだけのご恩と愛情を受け取ってきたかを思い出すように努めて下さい」と言われました。クリス・ドット氏は、「妙好人の道宗さんは、他人に酷い仕打ちを受けても、完全に阿弥陀佛のお慈悲に摂取されているのが解っていたので、彼自身は他人に言われたことやされたことに影響されず、怒ったり狼狽したりすることは無かったそうです」と付け加えられました。

31回疏開リトリートの閉講式で、ペドロ氏は、「いつの日か、無条件に人を愛することはできるのでしょうか?仏教の教えは、普通それは可能だと答えますが、それは聖道門を歩む賢人にとってのことで、私のような煩悩に満ちた浅ましい者にとってのことでないように思います。このことを思い出しますと、阿弥陀仏の本願は、ただ私一人のためだったと仰った親鸞聖人のお言葉を思わざるをえません」と仰いました。

ティナさんは、「無執着ということはまだよく分りません」と言われました。しかしながら、ティーナさんは、複雑な身体障害を持つ彼女の息子さんに関して「彼は決して私のものでないし、私が死んでも苦しまないようになって欲しいとただ願っている」と仰いました。そういう驚くべき披瀝を聞かれて、建心師は「あなたが無執着の意味を知的に理解できないのは、すでに無執着の近くに生きておられるからでしょうね」と仰いました。

この度の疏開リトリートは外からの参加者が11人の小さなものでしたが、このようなお同行のお心をお聞きかせ頂きながら、「大乗菩薩の無限なる集会」という言葉が、心に自然に浮かび上がってきました。

南無阿弥陀佛 南无阿弥陀佛

このレポートの偏狭と不完全をご寛恕願います。

敬いをもって、

合掌 アンディ 

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