第32回疏開リトリート記録 2023年10月
親愛なるご院家さま
先ずこの疏開リトリート開催を可能にして下さったこと、そしてまた、私たちがここ三輪精舎で給わるすべてのご支援に対して、ご院家さまと正行寺サンガの皆様に深く感謝申し上げます。
第三十二回疏開リトリートのテーマは「他力」でした。疏開リトリート前のオンライン・グループ座談会で、私たちは顕明師の英訳歎異鈔、『グレート リヴィング(大行)』の第八章と解説を拝読しました。あるグループでは、生活が苦しい時に他力のはたらきに気付くのか、それとも物事が順調に見えるときにより多く意識するのか、活発な話し合いとなりました。何人かのお同行は、苦しい時に他力を頼むのは易しいということに同意しましたが、一方で物事が順調に進んでいると私たちの業が活発になり、より自己中心的に振舞ってしまうという意見も出ました。
金曜の夕方に開講式が行われ、プヌワニ・香織さんが誓いの言葉を述べられました。香織さんは、彼女の考え方を変えた身近な最近の二つの出来事について話されました。まずは、他の人の言ったことを聞いて理解するのに問題が生ずると、これまでは外的状況に不平を懐いていたのですが、実際には最近聴覚に問題があると診断されたので、それは自分の問題であって他人のせいではないとの気づきを通して、なんと愚かなことだったろうと懺悔されました。また、最近インドにいる夫の親戚を訪問した経験を通して他力ということを考えて、どれほどそこの人々に支えて頂いているかが解り、『グレート リヴィング』第八章の叙述に触れて、自分自身を他力を象徴する母猫に運ばれる子猫のように感じさせて頂いたと披歴されました。
次に顕明師が開講のご挨拶をされ、ジョン・ホワイト教授の他力を主題にした最後のご講演について話されました。他力についてホワイト先生は、佛さまは私たちが心に抱き得るいかなる概念とも違うということを意味するところの「他者性」という言葉を使われていると仰いました。顕明師はさらに、ホワイト先生の仰る「他者性」というのは、佛さまそのものを指し示す言葉に他ならないと続けられ、親鸞聖人は「この佛さまは、先生や僧伽、家族や友人、自然など、私たちの周りに種々の形を取って現れる」と仰っていますと言われました。顕明師は、私たちの聞法の目的はこの他力の現れに気付くことであり、自他の上にはたらくこの他力への気付きは、自分自身を内観することによってのみ可能となりますと話して下さいました。
最初の座談会で、サム・ケリー氏は「自力を諦めて他力をたのむ」というのは実際には勇気の要ることであるが、「他力は常に現在しており、若存若亡するものではない」と知らせて頂いていると仰いました。
リズ・バーさんは、私たちを内面の平和に導き得るのは他力だけですと言われ、最近父親の看病に多くの時間を費やしていることを話されました。御父上は、眼の手術から回復しつつありますが、まだまだ視力に問題があるそうです。リズさんは、「父は身の回りの世話をする私を完全に信頼してくれています。世話をしているのは私ですが、実際には父と共に過ごす時間から大きな恩恵を蒙っているのは私です」と仰いました。私事、クリストファー・ダクスベリーは、最近母親との関係で類似した状況におかれ、全く同じ経験をしたことを話させて頂きました。私の場合、酷い関節炎を患っている母親が、私にとっては簡単な寝具の取り換えを誰か他の人に頼もうかというような変な話をするので当惑することがあります。そのような仕事は、多くの人にとって簡単であるということを母は忘れてしまっているのであって、その母親の言葉は私を苦労から護りたいという抜苦与楽の願いから生まれていることに気付かせて頂き、「他力」ということを実感させて頂きました。
アンディ・バリット氏は、これまでは仕事上のどんな挑戦も常にこなしてきたと自負する中で、最近未経験の仕事を任され、その仕事をする能力があるかどうか、大きな不安を経験したという話をされました。その時アンディさんは、「私に愚かさがあるというのではなくて、この私はまったく愚かさそのものです」という顕明師のお言葉を思い出し、新しい同僚の言うことに対して心を開いて謙虚に聞いていこうと決心できたと話されました。ほかのお同行たちも仕事場で同様な経験をしており、鈴木佳さんは「周りのよい人たちがどれほど私の仕事を助けて下さっていることか」ということに突然気付かされたことがあると言われました。
クリス・ドット氏は、「常に最善を尽くして後は阿弥陀仏にまかせよ」という言葉を引用しながら、私の煩悩熾盛を克服する道はただただ帰依のほかにないということに気付かせて頂きつつありますと仰いました。
ペドロ・サンティアゴ氏は、他の人が私のために働いてくれているのに私は感謝を言葉にしない時がしばしばあるということに、疏開リトリートの事前ミーティングで気付かせて頂いたと話されました。例えば、最近のことですが、私の友人が私のために食事を作ってくれたのに、私は汚れた台所のことしか思いませんでしたと告白されました。顕明師はこれに対して「佛さまに帰依することによって、私たちは自分の悪いところに気付かせて頂きます。 他力のはたらきに護られて、悪が転じて善に成るということがあります」と応えられました。
とても熱心な新しいお同行であるエロイサ・エンジェルズさんは、他力は「すべてであり、何かであり、同時に、無でもある」ということを理解しつつありますと言い、すべては相互に関連していると共にすべては空であるという彼女の思いを表現されました。エロイサさんは「知れば知るほど何も知らないということ」が解り始めましたと仰いました。
数人のお同行は、自分の問題を解決するために自力を使うおうとして疲れ切ってしまうが、それによってすべてを他力に任せるように導かれたという最近の経験の例を話されました。デイヴ・ジママン氏は、「大きな荷が下りた感覚」と言い、ウィリアム・アルバレス氏は、他力を思うと「心を静めてくれる安堵感があります」と表現されました。
鈴木佳さんは、疏開リトリートの準備段階で、自分自身のいのちと健康を当たり前だと思って来たことに気付かせて頂いたと言い、それはまたほかの人々のいのちを当たり前だと思うことに繋がっていたと懺悔されました。彼女の言葉に導かれて、私たちはみんな他の人々のいのちを、自分のフィルターを通してでしか見ていないということについて話し合うことになりました。
アンドリュー・ウェブ氏は何年か前に、他力ということを目的地に運んでくれる飛行機になぞらえて話し合ったことを思い出したと話してくれました。アンドリューさんは、この夏の日本への旅では沢山の手助けを頂戴して、自分はまるで他力によって運んで頂いたように感じたと仰いました。
土曜日の午後、石井建心師は「阿弥陀佛の光に触れられて」という素晴らしいご法話をして、他力のはたらきによる救済を見失うのは何故か、可能性のある四つの原因を軸に詳細な解説をなされました。その四つは、
- 無常の現実にまだ目覚めていない
- 自分自身の愚かさにまだ気づいていない
- 阿弥陀の慈悲にまだ目覚めていない
- 自分の執着にまだ気付いていない
です。
建心師は、夏の錬成会で阿弥陀佛の光を「光に触れて」と翻訳していたけれども、ある人アンドリューさんがそれを「光に触れられて」と訂正して下さったという最近の体験について話されました。この経験こそが「無意識に自力に執着していた私の心を阿弥陀様が照らして下さった瞬間」であり、まさに阿弥陀佛の光に触られた時でしたと言われました。日本から来られて疏開リトリートに参加しておられた下田教授は、「建心さんがこの訂正に敬意を払われたということ自体が、日常生活における他力の顕現です」と仰いました。
建心師は、才市さんの「ただ一面の他力なり」という捉え方とご院家さまの「謙譲と尊敬の大切さ」の教えを併せて一つの詩を作り、その詩を以てご法話の結論とされました。顕明さんは「このような詩が出てくるというのは、建心師の心に生きた経験が働いているのです。それこそ他力の実体験です」とその喜びを表明されました。多くのお同行が、建心師のご法話は非常に実践的で、難しい概念を非常に簡明に解り易く説いて頂いたとお礼を述べられました。
疏開リトリートの最後のお礼でアンドリュー・ウェブ氏は、「ただお寺においてだけでなく、家庭において、現実生活においてこそ、仏教の実践を深く心掛けねばならない」と言われた建心さんの言葉に大きな感銘を受けたと言われました。そのお言葉によって、家庭生活を佛教実践の障礙と見なし、そういう振る舞いをしてきていたことに気づかされたと仰いました。直ちに奥さまに電話してこれまでの言動を詫びられたそうです。これは、自力への執着によって周りの人々に対しても問題を起こす自己中心的なものの見方が、疏開リトリートで変わってきた素晴らしい実例です。
最後の座談会では、沢山の参加者が、お寺に参詣させて頂いている時ばかりでなく、日常生活の簡単な事柄の中にも他力のはたらきを見ることの重要性が解ったと表明されました。静かな心境になれば沢山の気付きを頂けるのだから、「行為のために行為する」というホワイト先生のお言葉を心に留めながら、その気づきと心の静けさを日常生活でも維持することこそが大事であると同意したことでした。
顕明さんは、僧伽は今や「成熟して落ち着いたいい状態」、すべての所感が「究極的真実のはたらきに触れている」、そして「2019年に三輪精舎にお出でになったときのように、今回も下田先生がこの特別な疏開リトリートに参加下さり、そのご講演によって多くのお同行が日常生活に他力のはたらいているさまを理解する手助けをして下さるのは本当に素晴らしいことです」とお礼申され、締め括られました。
全体としてこの疏開リトリートは、安らかな雰囲気のリトリートであり、すべての参加者が包み隠さず自分の考えを述べ、他の人の言うことに聞き入りました。誰かが言っていましたが、今回の疏開の参加者は、「無執着」をテーマにした前回の疏開の参加者とほとんど同じでした。前回と今回のテーマは密接に深く関係していたので、これら二つのリトリートには素晴らしい連続性があるように思えました。
南無阿弥陀佛
クリストファー・ダクスベリ―記